野上孝子★山崎豊子先生の素顔
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先生は、胡耀邦総書記にこの一年のご協力に感謝しながらも、
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「やはり中国の取材の壁は厚く、本音が聞けない。取材を申し込めば快く受け入れて下さるが、形式的で、人民公社、監獄でさえ、
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最後に口にするのは『胡耀邦総書記に宜しく』です」
と嘆いた。
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総書記はウァハハッと爆笑され、
「私だって地方に視察に行けば、まんまと騙される時がある。焦らず、また来年もくればいいではないか、小説は二十一世紀に間に合えばいい」
と、いかにも中国人らしいものの考え方で励まされた。
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★山崎豊子先生の素顔|野上孝子|文藝春秋|ISBN:9784163903057|2015年08月|戦争と平和を問い続けた国民的作家の創作の現場を秘書が明かす。
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山崎豊子を52年間支えた秘書による“素顔”なのだが、私生活にはほとんど触れず(元毎日新聞同僚の画家の夫・杉本亀久雄の死も1行だけ)、取材話がほとんどを占める。
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例えば、『華麗なる一族』。
小の銀行が大の銀行を飲み込む方法を「空想でいいですから、例えばどういうことなら成り立ちますか、選りすぐりのエリートの方々なら、答案は直ぐに書けるでしょう」と、野上秘書は某銀行の30代企画部員に執拗に問う。取材相手はのちに一人は頭取に、二人は副頭取になったという。
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山崎豊子の取材とはストーリーの細部まで聞き出すことだとわかるし、野上秘書は原稿を清書するだけにしおらしい秘書ではないこともわかる。
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山崎豊子の盗作・盗用騒ぎは、『花宴』『不毛地帯』『大地の子』などで騒がれたが、著者は「序章 真実の姿を伝えたい」でこう書く。
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また「シベリア抑留に関する取材は、十数人の方々から直接、苛酷な体験談を伺っていた。抑留記に至っては、二十数冊、目を通した」。「その体験は共通するところが多い。いわば歴史的に公知の事実と判断している」と書いている。だからといって断りなく引用するのは「盗用」である。
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上掲は『大地の子』取材で便宜供与を受けた80年代当時の胡耀邦総書記との会見の一コマ。したたかな作家の一面を伝える。旧満州への戦災孤児取材の過酷な旅の模様が綴られている。本書は「盗用疑惑」イメージを払しょくする目的のために、綿密かつ過酷な取材秘話を公開した本であるといえる。
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ただ「素顔」には「隠し通したい素顔」もある。国家とマスコミをテーマに書きたいと、毎日新聞の大森実(1922~2010)に接触する。大森実はベトナム報道で知られるが、その一部をライシャワー駐日大使に批判され、のちに毎日を退職する国際ジャーナリスト。ロス郊外に住む大森を小説のモデルにしたいと訪ねる。大森と山崎はほぼ同じ時期に毎日大阪本社に入った同僚である。
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「O元記者のお住まいに伺った。太平洋を一望のもとに見晴るかす部屋で連日、話し合ったが、ご体調を崩され、帰国のやむなきに至った」と本書にある。
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しかし大森実は『わが闘争わが闘病』(2003)に「作家山崎豊子との諍」という章(この章は大森夫人の記述)に……。山崎は『大地の子』を書いたとき、某大学教授に「自分の著述のいかなる部分を使ってもよい」という約定書をもらった。盗用騒ぎを恐れて、そういう措置をとっていたらしい。同じように約定書を大森にも依頼したと。
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――「真実を書くことによる、小説の信憑性を増すことを目的に、私の著作の、いかなる部分を引用されても、差し支えありません」
という、約定書のようなものを書いて、それにサインし、
「これにお豊さんのサインがあれば、正式文書になるので、盗作問題は起こらないだろう」
と言っていました。(『わが闘争わが闘病』)
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しかし山崎は文書の中の「真実の信憑性を増すために」云々にこだわり、大森の激怒をまねき、大森モデル小説は不調に終わる。
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「私、大森さんを書けないなら、これで絶筆します」とまで大森の前で言い切ったが、文藝春秋の専務や局長から“大森は左翼だ”と難色を示されて、モデルにはするものの換骨奪胎を狙っていたふしがある。
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――野上秘書が、口を挟んできました。まるで、スポークス・ウーマンのような、口のききかたでした。
「神戸生まれでも、大阪本社出身でもない、どこの誰かわからない、作中人物を描けばいいのです。私は、大森実なんていう人物は知らなかったし、作品を読ませてもらって、偉い人がいるなあ、と思っただけですから」(『わが闘争わが闘病』)
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すなわち山崎作品は特定の人物をモデルにしても、中身は換骨奪胎だったらしい。ま、小説とはそういうものだろう。あくまでもマスコミをテーマにしたい山崎は、その後西山事件(沖縄密約、外務省機密漏洩事件)の毎日新聞西山太吉をモデルに『運命の人』を書く。
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素顔を隠すことも、秘書の重要な仕事かもしれない。
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大森実◎わが闘争わが闘病
http://randomkobe.cocolog-nifty.com/center/2011/06/post-d549.html
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