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2015.10.26

岸富美子・石井妙子★満映とわたし

20151026l

 

 

 

昭和261951)年に担当した『保衛勝利的果実』は、伊琳監督の作品だった。

私の人生において忘れがたい一作である。

 

この作品は日中戦争の最中、ある村を日本軍が占領した際の出来事を描いていた。日本軍が家を焼きつくし、奪いつくし、中国人を殺しつくす、三光作戦を描いた内容だった。

そのワンカット、ワンカットを私はムヴィオラ(フィルム編集機)で見るうちに、胸が苦しくなり、作業ができなくなってしまった。〔…〕

 

 私の様子に気づいた伊琳監督が声をかけてくれた。

「岸さんは、このフィルムを見てどう思いますか」

私は率直に言った。

 

「日本軍がこんな酷いことをしたとは、とうてい思えません……」〔…〕

 

「岸さん、実は、これは私が実際に体験したことなのです。留守中、日本軍が入ったと聞き、慌てて戻ると村は全滅していたのです。私の親兄妹も全員が日本軍によって虐殺されていました」

 

私は言葉を失い、何も言えなかった。

 

★満映とわたし│岸富美子・石井妙子│文藝春秋│ISBN9784163903149201508月│評価=◎おすすめ│満映の崩壊と敗戦後抑留者の大地での日々。

本書は、岸富美子の手記『私の映画人生』をもとに、石井妙子がリライトし、章ごとに解説、注を加えたもの。

 岸富美子は、1920(大正9)年生まれ。1939(昭和14)年、満洲に渡り満映に入社。敗戦後、1953(昭和28)年まで映画編集者として中国映画の草創期を支える。映画編集という仕事は、撮影された膨大なフィルムをカットし、そのカットとカットを繋げて、音を画と合わせ作品として仕上げるもの。

 

 上掲はこう続く。

――満洲とは何だったのだろう。満洲で日本軍は何をやっていたのだろう。日本軍が村を占領したと聞いて、私たちは提灯行列をして喜んでいたが、そこでは何が行われていたのだろう。私は満映でどんな映画を作っていたのか。映画とは何か。

  私は初めて仕事を辞めたいと思うようになった。心の混乱は続いた。(本書)

 

満映(1937年設立)は、親日を訴える映画を作り識字率の低い中国人を感化する目的の国策会社である。敗戦後、満映は東北電影公司という映画会社に生まれ変わり、中国共産党に接収される。

日本人社員は1/3に減らされる。が、「日本人技術者の協力がなくては、私たちは映画一本、作れません。生活も責任を持って中国共産党が保証しますから、一緒に映画を作ってください」という舒群新所長を信頼し、旧満映の撮影機器、衣装等物資を貨車100両分とともに、長春からハルビン、さらに北の国境近くの町佳木斯、鶴崗と撮影所を求めて国共内戦の中を移動する。

とりわけ過酷な生活が待っていたのは、「精簡」(精兵簡政)と呼ばれるいわゆるリストラで約半数の117名が選別され、のちの文革時の下放のように沙河子で使役に供される。たとえば零下30度のなか松花江に沈んでいる船の周りの氷を割る作業、しかし翌日また氷で覆われるまことに無意味と思える作業だ。

 

岸たちのかかわった映画は、共産主義を浸透させるための国策映画だったが、日本人技師たちはそれに共鳴したわけでなく、また日本人がかかわったことは長く伏せられていた。1953(昭和28)年になって岸たちは帰国を果たした。

 

 満映(満洲映画協会)が取り上げられるとき、これまで甘粕正彦、李香蘭が主役、内田吐夢、大塚有章が脇役で、“鳥瞰図”のように描かれてきた。だが本書は映画編集者岸富美子とその家族が主役、脇役内田吐夢、大塚有章、端役甘粕正彦、李香蘭で“虫瞰図”(大森実の造語)のように描かれる。

 

 歴史も政治も関係なく、戦争に翻弄された市井の一員の手記だからこそ、満映の記録としての意義がある。

 

 

 

 

 

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