馬場マコト■朱の記憶――亀倉雄策伝
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「宣伝美術とは何か、デザイナーとは何かを、世の中にアピールしてこそ、『日宣美』の存在がはっきりする」
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戦前に通産省の工芸指導所で全国各地の工芸品のデザイン指導をした経験から美術評論家になった評議委員の勝見勝が、長髪をかき上げながら熱弁をふるう。
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亀倉は挙手し思わず言う。
「いい考えだ。ならば、今日集まった連中の、作品展をしようじゃないか」
「作品展ですか、画家のように美術館で」
「おい、おい、上野の森でやるのか」
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自分の仕事を作品として見てもらうなどと、誰も考えたことはなかった。周りから驚きの声が上がる。亀倉はすかさず言う。
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「上野の森でやっても意味がない。我々の仕事は、生活のなかにあってこそのものだ。
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生活の場で見せるのはどうだろう。美術館でなくデパートで開催するというのは」
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その3カ月後の〔1951年〕9月10日には早くも、銀座松坂屋を会場にして第1回日宣美展が開かれる。
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■朱の記憶――亀倉雄策伝│馬場マコト│日経BP社│ISBN:9784822272944│2015年12月│評価=○
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「朱の記憶」とは、1964年東京オリンピックでの亀倉雄策のエンブレムの朱の太陽のこと。当時コンペへの参加を指名されたのは、河野鷹思、亀倉雄策、稲垣行一郎、杉浦康平、田中一光、永井一正の6名。トップクラスのデザイナーたちだが、作品を見ると幼稚で、まだまだデザインの時代には程遠い。亀倉雄策のみが突出していた。亀倉雄策の東京オリンピックのポスター3点は、参加選手のみならず広く国民を鼓舞した。
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本書は、亀倉雄策(1915~199)の評伝だが、当方は日本グラフィックデザイン史として読んだ。ここではオリンピック関連でのデザイン問題に触れる。
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――デザイン懇談会では、日本語が読めない外国人のために、競技場や施設の案内表示として使う絵文字を開発することにした。過去のオリンピックでは行われたことがない、新たな試みである。そのほか、招待状、メダル、バッチから表彰台、身分票まで、デザインすべきものは膨大にある。これらはデザイン界を挙げて取り組むことに決まった。
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座長の勝見はみなを見まわしながら力強く言う。
「オリンピックをかつてなかった、壮大なデザインの実験の場にしましょう。一気に日本の美意識の底上げを図るのです。『日宣美』『世界デザイン会議』と続けてきたデザイン革命の仕上げが東京です。亀倉さんの言う通り、これは東京デザインピックだ」(本書)。
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勝見率いるオリンピックデザインチームは、20種類の競技種目シンボルマーク、観客席、手荷物預かり所、トイレ、シャワーなどの施設シンボルマークを開発した。「いまでは世界のどこの空港へ行っても見られるピクトデザイン=絵文字は、このとき初めて、福田繁雄、横尾忠別などその後の日本のグラフィック・デザイン界を担う、若手十数人の手により開発された」(本書)。
さらにオリンピック切手、入場券、選手村食券など、200人以上のデザイナーが参加したが、すべて無償のボランティアだったという。
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次いでオリンピックの翌1965年、万博(大阪万国博覧会)の開催が決まる。公式シンボルマークのコンペには15名と2事務所が指名され、7名の審査委員会で決定するが、発表当日、石坂泰三万博協会長の猛烈な反対によって振出しに戻る。当選作は、日の丸が威張っているようにみえ他国の反感を買う、抽象的で子どもや年寄りにはわからない、というもの。やり直しコンペで桜の花びらで5大陸を表した大高猛の作品に決まる。
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「人類の進歩と調和」をうたった1970年万博は、同時にベトナム反戦、70年安保闘争、全共闘などの嵐が吹き荒れた時代でもあった。それはグラフィックデザインの登竜門であった日宣美にも波及し、日宣美粉砕のデモに見舞われ、日宣美は解散する。
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当方20代の頃、グラフィックデザインに興味を持ち、「アイデア」誌を愛読し、大髙猛の講義も経験した。ポスター、シンボルマーク、ロゴなどで、当時永井一正のファンだった。ずっとのちの30年後にあるプロジェクトにかかわったとき、そのことをプロデューサーやデザイナーに話したところ、そのプロジェクトのロゴとシンボルマークを永井一正に依頼してくれて、ご当人にもお会いできた、という思い出がある。
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その永井一正は、東京オリンピックのコンペでは亀倉雄策に敗れたものの、1972年札幌オリンピックでは亀倉のデザインを継承しつつ雪のマークを加えたエンブレムが採用された。そして2015年に2020年東京オリンピックのエンブレムの審査委員長として登場した。が、当初当選作とした佐野研二郎の作品が類似問題を起こし、不透明な選考経過や佐野の他の作品の盗作騒ぎによって、白紙撤回された。過去のオリンピックと同様の内輪による安易な選考方法が情報拡散の時代に通用しなかったといえよう。永井は退場する。
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本書は、あとがきでこの問題に触れる。
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――オリンピック・エンブレム問題で沸いた今年、悪いのは佐野研二郎だろうか。
不幸のすべてはなぜ2020年に東京でオリンピックを開くかの大義が明確でないまま、オリンピック開催だけが決まったことだ。
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しかし、104人もの選ばれたグラフィック・デザイナーの競作コンペをして、佐野研二郎のデザインしかなかったということは、2020東京オリンピックの核心が空洞化していたという実証にほかならない。だからそれはエンブレムではなくロゴマークになる。そして模倣探しに堕ちる。
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「なぜ日本でいまオリンピックを開催するのか」
「このオリンピック開催を通して日本をどう変えるのか」
誘致した国にその想いと戦略がない以上、どんなデザインがでてきても、国民の共感は得られることがないだろう。そしてそれはいつまでも模倣探しの標的になる。(本書あとがき)
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たしかに東京2020は、単純な国際的イベントというほかはなく、なぜ今なのかというテーマが国民共通の理解になっていない。そのことがメインスタジアム問題、聖火台問題をはじめ、弛緩した組織の問題が露わになってきている。日本は劣化が進んでいるのか。エンブレム問題でも亀倉雄策のような牽引者が不在であり、いまだに最終案が提示されていない。
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