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2016.11.22

水口義朗■「週刊コウロン」波乱・短命顛末記

20161122

 

 しかしながら、『週刊文春』『週刊新潮』『週刊現代』『週刊ポスト』などが、それぞれに特色を生かして生きのびていった一方で、『週刊コウロン』は2年も持ちこたえることができなかった。

 今となっては、その理由は痛いほどわかる。

 あれから半世紀以上経ついまでも、脳裏に焼き付いているのは、嶋中(鵬二)さんから幾度も聞かされた、

 25年の歴史を持つ中央公論社の雑誌だから、どこか骨っぽいところは持ち続けていきたい。

個人的なスキャンダルを追い回すような、あくどい暴露主義は退け、知的に洗練された面白さを追求していきたい

 という決意だ。

 わたしが入社したころ、嶋中さんは36歳で、一回り近く年上。

 それから38年間薫陶を受けた。出版ジャーナリズムの師としては、これ以上の人は望めなかった

 

 「週刊コウロン」波乱・短命顛末記 |水口義朗|中央公論新社|20163|ISBN9784120048388|

 

  1956年『週刊新潮』、1957年『週刊女性』、1958年『女性自身』、1959年『朝日ジャーナル』『週刊現代』『週刊文春』『週刊平凡』と、続々と週刊誌が創刊された。

 そして195910月、『週刊コウロン』(正式には「週刊公論」)創刊号が発売された。表紙は棟方志功の版画。64ぺージ。朝日新聞に全面広告。「20円のデラックス週刊誌!」とある。他誌より10円安い。60万部発行。著者は1500人応募の新週刊誌要員採用の入社試験に合格し、59年、中央公論社に入社。

  1959年、皇太子・美智子妃結婚、1960年、安保騒動などがあり、時代は高度経済成長へ、まさに“日本の青春”時代だった。当方は週刊誌ブームのなか、ときどき『朝日ジャーナル』を買っていたが、創刊号マニアゆえ、もちろん『週刊コウロン』も買った。今のスマホのように週刊誌は通勤電車で読む時代だった。

  『週刊コウロン』は、小説家の話題に限っても、井上靖、三島由紀夫、大藪春彦、火野葦平、獅子文六、倉橋由美子、有吉佐和子、遠藤周作、石原慎太郎、野坂昭如、城山三郎などが登場。

  創刊号からの連載は、新鋭五味川純平「アスファルト・ジャングル」、松本清張「黒い福音」、のちにまだ産経記者だった司馬遼太郎「花咲ける上方武士道」。

 エッセイ(当時は「随筆」)は「鍵」でベストセラーの谷崎潤一郎、「楢山節考」でベストセラー深沢七郎。ただし著者が担当した深沢には艶話を期待したのに不発で、2回で終了。

  その深沢の小説「風流夢譚」は『中央公論』196012月号に掲載され、612月に「嶋中事件」を引き起こす。中央公論社最大の事件。しかし、……。

  ――中央公論社に右翼が押しかけていることも、「風流夢譚」が『中央公論』編集部内で掲載をめぐって賛否があったことも、わたしたち『週刊コワロン』の下っ端記者はまったく知らなかった。

そもそも取材の忙しさにかこつけて、わたしは作品すら読んでいなかった。(本書)

  小田実「ニッポン何でも見てやろう」の取材で小田、カメラマン鈴木勝太郎と、3週間北海道を車で走り回る。帰ってこいと編集部から電話。

  ――懐かしの編集部は、閑散として妙によそよそしい。「えっ、北海道から戻ったの? 雑誌、休刊になったんだぞ、おまえ知らなかったのか」と一人に肩をたたかれた。(本書)

  3回で終わった「鰊の来ない漁村と北辺の開拓村」などのルポは、小田実の全集にも収録されていないという。創刊から110か月、1961821日終刊号の表紙には何の告示もなかった。

 

 

 

 

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