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2016.11.18

石井妙子■原節子の真実

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 昭和14年、その矢沢(正雄)に召集令状が届く。ふたりの交際は淡いものだったが、矢沢はけじめをつけるべきだと判断し、「自分は生きては帰れないと思う。お互いに自由に元気にそれぞれの道を歩もう」と節子に告げ、戦地に向かった。〔…〕

  戦時下の不穏な空気は、節子をそれまでになく恋へと向かわせたのだろうか。戦後、こんな発

言をしている。

〈戦争中は恋愛なぞ考えるいとまもありませんでした。

 だけれど唯誰かを愛していなければあの大苦痛、狂いそうな時間の連続にはたえられないような気がしました〉(「民報」昭和22531日)

 さらにもうひとり、彼女が思いを寄せた男性がいる。

 それは淡い恋ではなく、結婚を意識した熱烈な恋だったと映画関係者の間では、密かに語り継

がれてきた。昭和15年ごろのことと推察される。節子は20歳だった。

 ――第5章 秘められた恋

 

原節子の真実 |石井妙子|新潮社|20163|ISBN9784103400110 |◎=おすすめ

 ――平成279月5日、原節子という伝説を生き切った会田昌江は、95歳でその生涯に幕を下ろした。半世紀にも及んだ隠棲の末に。

 その死は故人の固い遺志によって、およそ3カ月のあいだ、世に知られることはなかった。(本書)

 原節子は、1920年生まれ、1963年に引退したから、封切りを映画館で観たという人はもうほとんどいないだろう。映画全盛のころ映画館で観たのは、木下恵介であり黒澤明であって、小津安二郎ではなかった。小津の評価が欧米からの逆輸入されてから、テレビの深夜番組や衛星放送で原節子がひんぱんに見られるようになった。

 当方もその一人。『わが青春に悔なし』(黒澤明・1946)、『安城家の舞踏会』(吉村公三郎・1947)『青い山脈』(今井正・1949)『めし』(成瀬巳喜男・1951)など、すべてテレビだ。

 しかし再三放映されたのは小津安二郎の作品で、『晩春』(1949)『麦秋』(1951)『東京物語』(1953)『東京暮色』(1957)『秋日和』(1960)『小早川家の秋』(1961年)。

 当方にとって小津作品の魅力は、その時代の折り目正しい日本語による会話と清楚でシンプルなファッションであった(『秋日和』で銀色のマニキュアをした和装の原節子に幻滅したが)。

 小津の死と原の引退が同じ年だったことから、「小津の死に殉じて姿を消した」という原節子伝説もあった。本書によれば、「小津映画を代表作とされることに、節子は不満を抱いていた。小津映画に敬意を払っていたことは確かであり、出演すれば評価されることもわかっていた。とはいえ、もっと躍動感のある映画、人生に果敢に挑んでいく女性を演じたいと思っていたことも事実である」。

  ――多くの巨匠たちに愛され、数々の名作に出演し、幸福な女優だと語る人がいるが、果たしてどうであろうか。彼女は最後まで代表作を求め続けた。しかし、その夢は果たせなかった。女優人生のなかで恋を犠牲にし、実兄を失い、自身の健康を損ない、得られたことはどれほどのものだったろう。(本書)

  2000年発表の『キネマ旬報』「20世紀の映画スター」で日本女優の第1位に選ばれたという。かつてのスター女優がテレビで老醜をさらすことも多い(それも一つに生き方だ)が、“映画女優”という職業が死滅した現在、原節子の「永遠の処女」伝説は語り継がれていくだろう。

 著者は、彼女の引退、隠棲、独身は「抗い」だった、と書く。当方は、なかでも42歳で引退後95歳で死に至るまで半世紀の間その姿を現すことのなかった、という生き方を貫いたことによって原節子伝説は語り継がれていくと思う。

 

 

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