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2016.12.30

正津勉■乞食路通――風狂の俳諧師

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はづかし散際見せん遅くら

  それにつけ素晴らしい、さすが路通なるなり。ここにいたって「はづかし散際」との自嘲はどうであろう。いやほんとなんとも見事な挨拶というものでないか。〔…〕

 もうその刻が迫っている。路通は、このときぼそぼそと呟くようにしていた。それはなにかと陀羅尼経だったろうか。そのさき翁の塚にひれ伏して唱えた経である。そうしてやや、ひとりひっそりと息を引きとっていたのでは、ないだろうか。

 

 乞食路通――風狂の俳諧|正津勉|作品社|20168月|ISBN: 9784861825880|○

  路通は、芭蕉が生涯かばい続けた不肖の弟子である。奥の細道むすびの地大垣で登場し、芭蕉を出迎える。じつはこの奥の細道の旅に随行するはずだった弟子である。

  その大垣で芭蕉が路通を連れて大垣藩次席家老の戸田如水を訪ねる(「如水日記抄」)。これはその日記に芭蕉のことを「心底計り難けれども、浮世を安く見なし、諂(へつら)わず奢らざる有様也」と書いてあることで有名。

  いまでいえば文化人顔した大垣市役所の戸田副市長が、多くの幹部職員を門弟にしている著名人を招いた図である。芭蕉はやむなく訪問。井本農一「芭蕉入門」によれば、「如水の『浮世を安くみなし』云々という口調には、芭蕉に対する多少の軽蔑と、また多少の羨望の気持がまじり合っている」という。

 この日記に「路通と申す法師、〔…〕是は西国の生れ、近年は伊豆蛭島に遁世の躰にて住める由、且又文字の才等これ有りと云々。白き木綿の小袖。数珠を手に掛くる」と記されている。

  ――路通。八十村氏。湖南を乞食中に芭蕉に対面。初め同伴者に予定されていた。一時勘気を蒙り臨終の際許される。(萩原恭男校注「芭蕉おくのほそ道」岩波文庫)

 いねいねと人にいはれつ年の暮 

 乞食坊主路通は、「帰れ帰れ」と嫌われ続け、それを逆手に取ったこの句が有名(猿蓑に収録されている)。慢心、放縦、金銭にだらしない、後年は芭蕉の偽筆を書いて売ったともいわれている。

  路通37歳、芭蕉41歳のときふたりは出会った。芭蕉は50歳で亡くなったが路通は90歳まで生きたという。路通の13回忌に出された文集に、松助という門弟の一文が残されている。

 ――師翁路通、齢九十の春も過て、初秋の十四日、浪花江の芦間に見失ひ侍けるも、十とせ余り三とせなるらん。……。そのかみ翁の

 はづかし散際見せん遅くら

 と八十余歳の筆をふるはれしも、なつかしきまゝ、門人渓渉が写しおける一軸の像にむかひて、

文月某日をうるす。松助「路通十三回忌序」

  ほとんど資料がなく、不分明な路通の生涯を、水上勉の談話や多田裕計の小説などを引用しながら、とまどい、行きつ戻りつ、その生涯をたどったのが本書である。著者は最後にこう書く。 

  ――路通。最底辺たる宿命にいささかなりも屈することがなかった天晴れな俳諧師。いつどこで野垂れ死にしていても、おかしくない薦被り者なのである。〔…〕

 路通の句作は、心底の発露だ。そこにはいまこそ聴くべき、い、沈黙、号泣、憤り、呟きや、ひめた声がいきづいている。(本書)

  火桶抱いておとがひ臍をかくしける  路通

井本農一■ 芭蕉入門

 

正津勉■脱力の人

 

正津勉□詩人の愛――百年の恋、五〇人の詩

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