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2017.01.30

三田完★不機嫌な作詞家――阿久悠日記を読む

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 平成12年(2000114日、第122回芥川賞直木賞の発表の日、阿久さんは日記の欄外にこんな短歌をししている。

 

 ライバルが直木賞とりし日の夜の梅

 こぼれ散るさましばし見ており

 ――なかにし礼氏受賞――

 

 夜闇のなか、庭の梅の花びらが散るさまを無言でじっと見つめている阿久悠――その胸中を想うと、ほろりとにがいものがこみあげてくる。

 

 ★不機嫌な作詞家――阿久悠日記を読む|三田完|文藝春秋|20167月|ISBNコード:  9784163905044 |○

 

 阿久悠(19372007)は、1981年から死の半年前までの27年間、一日も休まず日記を書いていた。その日記から著者は、阿久悠の広告、放送台本、歌、テレビ、イベント、芝居、映画、小説、コラムと疾走した人生を、そのエピソードと発言から振り返る。

 上掲にあるように阿久悠(19372007)となかにし礼(1938~)の二人はライバルである。

  阿久悠は、「瀬戸内少年野球団」(1979)「喝采」(1988)「墨ぬり少年オペラ」(1989)3度直木賞の候補にあがり、他方なかにし礼は、「兄弟」(1998)、「長崎ぶらぶら節」(1999)と2度候補にあがり、「長崎ぶらぶら節」で受賞している。

 上掲はそのときの日記。著者自身も俳風三麗花」で直木賞候補になったことがあり、“ほろりとにがい”と表現している。

 

 今なら本が売れるなら、と有名人であればあるほど受賞していただろう。傑作小説「無冠の父」1993年に書かれたが、刊行されたのは悔しいことに死後の2011年である。阿久悠となかにし礼とを分けたのは10年という時代の差である。

 また、阿久悠はレコード大賞を5度。「また逢う日まで」尾崎紀世彦、「北の宿から」都はるみ、「勝手にしやがれ」沢田研二、「UFO」ピンク・レディー、「雨の慕情」八代亜紀。

 なかにし礼は3度。天使の誘惑黛ジュン 今日でお別れ 菅原洋一 、「北酒場 細川たかし

 ついでながら、ともにがんで闘病。

 

 本書で興味深かったのは、宗教学者の山折哲雄が 阿久悠の詞と和泉式部の関わりを論じていることを紹介した部分だ。

 まず、「北の蛍」は同名映画(1984・五社英雄監督)の挿入歌。

 

 山が泣く、風が泣く

 少し遅れて 雪が泣く

 女 いつ泣く 灯影が揺れて

 白い躰がとける頃

 もしも 私が死んだなら

 胸の乳房をつき破り

 赤い蛍が翔ぶでしょう

 

 著者はNHKプロデューサーで紅白で森進一がこの歌をうたっていたとき、舞台袖で都はるみが「凄い凄い」と言っていたと書いている。

 そして、山折哲雄が「北の蛍」の歌詞を耳にしながら、千年以上も前に和泉式部が詠んだ恋歌へと思いを馳せた「後拾遺和歌集」に収められた一首。 

 ものおもへは沢の蛍もわが身より あくがれ出づる魂(たま)かとぞ見る

 

 ――阿久氏はこの詞をつくったとき、和泉式部の歌を思い出していたのかもしれない。〔…〕魂鎮(たましず)めのための歌である。そのとき歌の言葉もまた胸の乳房をつき破って、相手の胸に翔んでいく。ものおもうことの悲傷であり、哀切である。「北の蛍」を歌う森進一は、その気分をよくつかんでいたのだと思う。(山折哲雄「歌の精神史」) 

 

 当方は、 阿久悠となかにし礼と並べて、だんぜん 阿久悠寄りである。その理由は自分でも分からないが、時代を先取りし、時代を憂えた“昭和の人”というイメージがある。やがて 阿久悠もなかにし礼も取り残され、シンガーソングライターの貧弱な歌詞が中心になり、「北の蛍」のような壮絶な歌詞は消滅し、“歌の言葉が痩せてゆく”時代となる。

阿久悠▼無冠の父

 

       

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