
すっかり乞食に身をやつした井月である。
晩年は、今まで親切にしていた家でも露骨にいやな顔をされ、戸を閉められるようになった。居留守も使われた。犬にも吠えられる。井月は、酒を友とした。酒を求め、腰の瓢箪に酒を満たす行脚となったが、酒豪ではない井月は、すぐに泥酔、前後不覚、寝小便もする。あまりに汚いので婦女子に嫌われた。
井月は伊那を放浪する。しかし、伊那は井月を抱えるほどの余裕をますますなくしていた。
それでも井月は歩かねばならない。
いたずら小僧は小石を投げ腰の瓢箪に当てっこをした。石が頭に当たり血が流れ出したが振り向きもしない。酪乱して小滝の中へ横さまに落ち込んで、一向に身動きもしない状態で発見されたこともあった。
★俳人井月――幕末維新風狂に死す|北村皆雄|岩波書店|2015年3月|ISBN: 9784000291590|○
井月(せいげつ)といえば、下島勲・高津才次郎編『漂泊俳人井月全集』という基本資料があり、 石川淳『諸国畸人伝』(1957)、つげ義春『無能の人』(1985)で知られていたが、最近では岩波文庫『井月句集』 (2012)、本書の著者による映画『ほかいびと――伊那の井月』(2011)でさらに知名度が上がった。
井月は、あるときは侍姿、あるときは入道の姿で、飄然と信州伊那谷に現れた。本書は幕末から明治への歴史の転換期と伊那谷という風土性から井月をとらえた一書である。重複が多いのが気になるが、風狂に生きた生涯を丹念にたどった労作である。
伊那の民俗学者向山雅重によると、「見知らぬ旅人が壊れている危ない橋を渡ろうとしている。それを見ても諏訪の人は何も声をかけなかった。下伊那の人は『危ねぇぜ』と一言声をかけた。上伊那の人は『危ねぇ』と言いながら、橋まで飛び出して行って連れ戻そうとする。ややもすれば一緒に落ちてしまう」という。
この上伊那のおおらかさが、30年間放浪の拠点をおいた理由の一つであろう、と著者は書く。同時に、幕末の戊辰戦争では井月の第一のふるさと長岡藩が井月の第二のふるさととなる伊那と敵対関係になり、さらに明治に入り戸籍、徴兵令など近代国家として制度が整い始めると、放浪者としては生き苦しい時代となり、井月は時代から弾き出される。
――終焉の地となる一軒のあばらやに担ぎ込まれた。腰も立たず口もきけぬ病躯を横たえていたが、翌1887(明治20)年3月10日、旧暦2月16日、66歳で息を引き取るのである。死の2時間前に次の句を残した。
何処やらに寉(たづ)の声きく霞かな
寉とは鶴のこと、霞のなかどこやらから鶴の鳴声が聞こえてくるなあ、というのである。手にした筆はふるえていた。墨字にそれがわかる。それでも「霞かな」の字を、薄く消え入るように書いているのは、あたりの輪郭をぼやかす霞を思っているのだろう。この俳人のせめてもの心配りであろう。(本書)
晩年、井月は酒を求め、酒ゆえに嫌われた。その酒の句、10句……。
山笑う日や放れ家の小酒盛
翌日しらぬ身の楽しみや花に酒
寝て起きて又のむ酒や花心
酒の味かはらぬ老いの機嫌かな
酒を売る家に灯はなし遠砧
鴫(しぎ)鳴くや酒も油もなき庵
酒となる間の手もちなき寒さ哉
よき酒のある噂なり冬の梅
酒蔵に径(ちかみち)もなし年の暮
初空を心に酒をくむ日かな
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