乙部順子★小松左京さんと日本沈没秘書物語
小松さん自身、戦争や戦後の闇市時代、大学時代のイデオロギー闘争、失業時代などを通して、人間や社会、自分の中の醜い部分を見たり命がけの体験をしてきているので、「憎しみ」や「暴力」 の引き起こす禍々しさをいやと言うほど知っていたのだろう。
「作家は、読者を物語の世界に引きずり込んでしまうので、最後は現実に戻してあげないといけないんだ。
芝居や落語などもそういう仕掛けになっているね」
小松さんはよく、こう言っていた。『日本沈没』というフィクションで多くの読者を巻き込んでしまった作家の言葉としては、切実だ。
「この作品はフィクションです」と巻末に書いてあるにもかかわらず、「我が家のある町は大丈夫でしょうが?」という問い合わせが殺到したというのだから。
★小松左京さんと日本沈没秘書物語|乙部順子|産経新聞出版|2016年11月|ISBN:9784819112932 |○
著者は、1977年から34年間、小松左京(1931~2011)のアシスタント、秘書を務め、現在もイオ代表として小松作品の窓口役。
その頃当方がリアルタイムで読んだSFは、創元推理文庫(背表紙にSFのロゴ)と早川ポケミスと同じ体裁のサイエンス・フィクション・シリーズ(背表紙にSFのロゴ)。好きな作家は、軽妙でユーモアあふれるフレドリック・ブラウン『3・1・2とノックせよ』『スポンサーから一言』『真っ白な嘘』など、詩情と幻想のレイ・ブラッドベリ『太陽の黄金の林檎』『火星年代記』『華氏451度』など。
日本SF御三家の星新一、小松左京、筒井康隆も読んだ。星は都会的過ぎて、小松は長すぎて、もっぱら筒井のナンセンスな短篇を好んだ。
さて、小松左京は『地には平和を』(1963・ハヤカワSFシリーズ) でデビュー。同タイトルを含む11の短編を収録。
――今にして、ようやくSFという形式のもつ文学的な意味が、私にもつかめかけて来た所であり、その「あそびの文学」の仮面の後にかくされた厖大な可能性に、いささか呆然となっている恰好だ。だから私の書いたものに失望されたとしても、そのためにSFはつまらないものだなどと思わないでいただきたい。(あとがき。1963.7.22の日付)
2016年11月にすみだ北斎美術館が開館し評判になっているので、本書の「ホクサイの世界」というわずか4ページの短篇を紹介(古いものなのでオチまで書く)。
20世紀に発行された画集でホクサイを見つけた夫婦はフジヤマを見たいと時間機に乗って19世紀の日本へ旅立つ(フジヤマは23世紀に大爆発を起こして形が変わってしまっている)。「やがて袖なしの上衣一枚にフンドシというベルト・パンティをはき、ホクサイの絵に出てくる」人たちに出会い、音声翻訳器で会話をする。
「そんなもの知らねえです。あれがエド村で、ここはスミダ川ちうだ」男は網をたぐりながらぼそぼそ言った。
「むかしやァあれでもトウキョウちうて、世界第二の都会だったがの。今じゃ、やけてぶつこわれて、赤土の下になってるだ」
僕は妻の腕をギュッとにぎりしめた。妻ときたら2世紀も時間をまちがえた。「お客さア、あんたらこれ食べなさらんかね」男ははじめて顔をあげて、ニヤリとわらつた。その顔は、ひと眼でそれとわかる放射能畸型で、口が耳までさけていた。ぬるぬる光るものを、三本指の手でつかんでつきつけながら男はいった。
「ここのシラウオはの、ミツマタシラウオちうて、昔から頭が三つあるのだ。――うまいだよ」
(「ホクサイの世界」)
当方は、『日本沈没』(1973)で小松左京を“卒業”してしまったが、この『日本沈没』で「高速道路の橋脚はもろく傾き、道路はひん曲がって、何百台もの自動車を、砂をこぼすように地上にぶちまけた」と書き、専門家から「あり得ない」と非難されたが、22年後1995年1月17日に現実となった現れた。
その年4月から週1回毎日新聞に地震ルポを連載する。『小松左京の大震災'95 この私たちの体験を風化させないために』(1996)がそれ。現地ルポだけでなく、各専門家との対談、復興への具体的提案など。著者は、心のケアの対談相手の野田正彰から「小松さんは鬱病だから、これ以上仕事をさせてはいけない」と注意される。
著者は豪胆と繊細をあわせもつ小松左京をこう記す。
小松は2011年、80歳で死去。著者はその後も同人誌「小松左京マガジン」(50号で終刊)、『小松左京全集完全版』(オンデマンド版・全50巻)等に係わっている。
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