小林紀晴★まばゆい残像 そこに金子光晴がいた …………久しぶりに金子の詩集を読んで旅の感傷にひたった
あれからけっして短くない時間がたった。旅は積み重なった。
そして、いま強く思う。
またいつか、あの頃のように35mmのフイルムカメラにモノクロフイルムだけを詰め、金子光晴の文庫本を持ち、
汗をかいてその雫が頬からあごを伝い乾いた大地に落ちるのをぼんやりと眺めるような旅をしてみたいと。
★まばゆい残像 そこに金子光晴がいた /小林紀晴 /2019.11/ 産業編集センター
旅を撮り、旅を綴る小林紀晴(1968~)が、かつて金子光晴(1895~1975)の文庫本を手に金子の若き日の足跡を追った旅を思い、いま「記憶は常に新しい」とその残像を追う。
――最後に残るものは記憶だ。それもかなり偏ったそれだ。それを反芻することが新たな旅、あるいは旅の熟成といえるのではないか。 (本書)
コロナ禍の日々、しきりに旅に出たいと思う。かつて多忙な仕事の合間に短い休暇を取り、その時々の友人たちとシンガポールへ三度、パリへも三度行ったことがある。
自伝や詩集を片手にそのひとりの人を追う旅などかつて経験がない。いや「おくのほそ道」をポケットに出羽の国を一人旅したことがあるが、これはイメージが違いすぎる。しかしたいていの一人旅は、なにかと交信しながら旅をしていたように思う。
神経をもたぬ人間になりたいな。
本の名など忘れてしまひたいな。
女たちももうたくさん。
僕はもう四十七歳で
近々と太陽にあたりたいのだ。
軍艦鳥が波にゆられてゐる。
香料列島がながし目を送る。
珊瑚礁の水が
舟の甲板を洗ふ。
人間のゐないところへゆきたいな。
もう一度二十歳になれるところへ。
かへってこないマストのうへで
日本のことを考へてみたいな。
著者はこの「南方詩集」を引き、「あきらかに金子はかつての自分やその時代を懐かしんでいる。そのことが滲んでくる。旅は終わってしまったのだと、否応なく気づかせてくれる」と書く。懐かしむことしかできないことに愛おしさを感じている、とも。
金子は、1918年から2年余りヨーロッパへ。1928年から上海、シンガポール、のちパリへ。放浪の旅は数年にわたり、のちに『どくろ杯』『ねむれ巴里』『西ひがし』の自伝3部作となる。
当方も著者にならって金子の『女たちへのエレジー』(1998)から1篇を引いてみよう。
水のながれが
僕を誘ひ入れる。
岸辺に立つて
ながめてゐる僕を。(以下、3行/4行、略)
色のない水は重つて
底青く
結ばれ、とけ、泡立ち
淡水のしめつぽい
味のない、いがらっぽい
はかないにほひを立ちのぼらせる。
にぎやかで、ひそひそした水の声よ。
老もつかれもしらぬ水のゆくへよ。
委ねるため、
すてるため
ながした考を
はるかに追ふために、
僕のおもひはながれ
からだはとどまる。
僕はのこる。草の葉や、根瘤や、
きのふのくらしや、家や、
うごきのとれない環境や、
がらくたどもといつしょに。
僕はながれる。わらしべや、
すてた摘花や、おもひでとともに。
――「水」
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