北村薫★ユーカリの木の蔭で …………ゴシップあまた、本にまつわる“小ネタ”の備忘録
三島由紀夫の、昭和30年に出た角川文庫『花ざかりの森』の初版は面白い。戸板康二の解説中に、こう書かれている。
――十代の作品といはれる「花ざかりの森」も「みのもの月」も「彩繪硝子」も、到底「落書き」とは思はれぬやうな、ある意味での完成がある。
あっと驚く誤植である。後に戸板自身がエッセーの中で、頭をかかえている。「若書き」と書いた原稿を「落書き」と読まれてしまったのだ。
平謝りしたら、三島はからからと笑い、「むしろ正しい」といったそうだ。
――「歴史は繰り返す」
★ユーカリの木の蔭で /北村薫 /2020.05 /本の雑誌社
ゴシップの楽しさと批評の醍醐味を兼ね備えたエッセイといえば丸谷才一。古書にまつわる蘊蓄といえば出久根達郎。そういう流れをくむ大家といえば、北村薫。本書は、本にまつわる北村薫の“小ネタ”の備忘録である。
いくつか紹介――。
北村は、『北村薫の創作表現講義』の中に、寺山修司の有名な短歌、《マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや》を引いた。
現代の若者は《見捨てる》と混同しないだろうか。歌意も添えておいた方が親切ではないかなどと悩み、紆余曲折の末に、注を加えた。校正もしたのに、その注が《見捨つる》になっていた。「見ていたのに、全く見えなかった」。
――ある人は、《そういう時には、活字の上に妖精がいて、見えないようにするんですよ》といった。(「校正の妖精」)
*
芥川龍之介の遅筆ぶりは、よく知られている。はかどらぬ仕事に苦しむ姿には、鬼気迫るものがあった、という。森鷗外は陸軍軍医総監でありつつ多くの作品を残した。一体いつ書くのか。書くのがトテモ早くなければ、あんなに沢山書ける筈がないと、芥川は鷗外の“秘密”を知りたがった。鷗外が筆をとる場面に居合わせた小島政二郎の話。
――偶然、私は先生が私の前で立ったまま毛筆で原稿を書かれるのを見た。その早いのに、私は思わず固唾を呑んだ。スラスラと淀みなく書き流したままで、消しも書き入れもなかった。〔…〕
帰ってからその話を芥川にしたら、
「本当か君――」
と言ったまま、暫くは信じられないような目の色をしていた。(「鷗外の筆」)
*
講演の魅力とは、文章で読めば分かるような《本論》を聞くことではない――と、わたしは思う。
話すその人と同じ時間空間を共有する。そこに意味がある。壇上にいるのが心から愛する人なら、かつて高座で話しているうちに寝てしまったという古今亭志ん生のように、いびきをかいていても《いいもの見ちゃったなあ》と満足して帰れる。
そういうものではないか。
しかしながら、多くの客は《本論》を求めるし、志ん生ほどの魅力を持った講演者も少ないだろう。
難しいところだ。(「何が本論か」)
*
『日本語文法大辞典』(明治書院)がすごい。
助詞「なり」の項目。《ボーイがオーダーを聞いて去るなり、私は吉住を急き立てた》(有楢川有栖・ダリの繭)。
こういう辞典の用例にミステリが出て来るのは珍しいと、担当者名を見ると、久保田篤氏。宝探しのように同氏の執筆個所を北村は探す。
――例えば助詞「ったら」。
係助詞では、《ずるいのよ、この子ったらね、前期の英語のテスト、九十点だったんだから》(加納朋子・魔法飛行)や《顎で使うんですよ。憎たらしいったらありやしないわ》(泡坂妻夫・喜劇悲喜劇)など。〔…〕
副助詞の「しき」のところでは、有楢川さんの『ダリの繭』の中から、何と、こういうところが引かれている。
――《なめられたものだ。それしきの論理展開についていけなくて推理作家が務まるものか》。
この久保田先生は小学生の頃からと筋金入りのミステリフアンで、《不可解な謎を手がかりによって論理的に解明するという本格ミステリは、(専門の) 日本語学に似ている事とおっしゃる方だった。(「あっといわせる辞典」)
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