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2020.09.11

発掘本・再会本100選★遠いアメリカ /常盤新平     …………「ねえ、ハンバーガーって知ってる?」「ハンバーグのことなの」「どうも、ちがうような気がするんだ」

1


 この銭湯は平日は三時に開く。〔…〕


 たしかに一種の解放感がある。それ以上に孤独感と敗北感がある。自分は生存競争から脱落してしまったという、この敗北意識はやりきれない。


 僕はどこに行くんだ、と重吉はいま鏡に向って問いかける。おぼつかない読解力で、薄汚れたペイパーバックや雑誌を読んでいたってしょうがないじゃないか。

 しかも、読むのが買うほうに追いつかないで、ペイパーバックと雑誌がどんどん増えてゆく。〔…〕
 頭のなかで、アメリカが大きくなり深くなり広くなり伸びてゆく。

★遠いアメリカ /常盤新平 /1986.08 講談社 


 「昼下がりの情事」や「くたばれ!ヤンキース」を映画館で見たとある。1957~58年の東京を舞台にした青春小説である。

 大学院をやめ翻訳の下請けをしながら、アメリカのペーパーバックや雑誌にのめりこんでいる重吉には、劇団員の椙枝(すぎえ)という4歳下の恋人がいる。クリーネックス・ティシューもピッツァも本や辞書でしか知らない。こんな会話がある。

 ――「ねえ、ハンバーガーって知ってる?」
「ハンバーグのことなの」
「いや、ゆうべ、探偵小説を読んでいたら、出てきた。私立探偵がロサンゼルスの郊外のコーヒーショップでお昼にこいつを食べている。どんな食べものだろうと、辞書を引いてみたら、ハンバーグ・ステーキとしか出ていない。どうも、ちがうような気がするんだ」

 父親からの仕送りに頼り、恋人に励まされながら、将来への自信が持てず、無為な日々を過ごしている。二人が会うのは、喫茶店と映画館。古本屋の主人、喫茶店のマスター、寿司屋の大将、町の人たちはみんなやさしい視線を送ってくれる。
 いつかアーウィン・ショーの『夏服を着た女たち』を翻訳することを夢みながら、やがて結婚を決意するところで小説は終わる。

 常盤新平は、この物語の女性と実際に結婚し、離婚。翻訳が実現するのは、20年後の1979年。さらにのち50代になってから書いた小説と聞くだけで、作家の業というか、切ないというかやるせないというか。まだ豊かでなかった昭和30年代に青春を送った読者にノスタルジーを呼んだのか、本書は直木賞を受賞した。

 いや、やさしいだけではない。こんな会話があった。

 ――「あなたって、気が弱そうで、人がよさそうに見えて、そのくせ、案外、図々しくて、狭いところもあるの。つまり、朴訥で狡猾」
重吉は、朴訥にして狡猾と言いなおす。
「お父さまにそっくり」
と椙枝はまだ笑顔で言う。 (本書)

 ここから話は『遠いアメリカ』から大きくそれる。“狡猾”で思いだすのだが、ともに早稲田出身の常盤新平と小林信彦とが編集者として登場し、しかも犬猿の仲という伝説。『ヒッチコックマガジン』編集長の座をめぐるトラブルだったと記憶するが、両者ともその言い分を小説やエッセイに記録している。だが、ここでは省略。

常盤新平(1931~2013)
大原寿人名義『狂乱の1920年代――禁酒法とジャズ・エイジ』(1964年2月・早川書房・ハヤカワライブラリ・¥290)

小林信彦(1932~)
中原弓彦名義『虚栄の市』(1964年1月・河出書房・河出ペーパーバックス・¥280)

 ともに処女出版で、当方は長年愛蔵した。『狂乱の1920年代』によって1920年代を描いたノンフィクションに深入りし、『虚栄の市』によって小林信彦にのめりこむことになる。

 ちなみにハヤカワライブラリには、福永武彦・中村真一郎・丸谷才一『深夜の散歩』(1963)、河出ペーパーバックスには、小田実『何でも見てやろう』(1961)と、これも当方が愛蔵した名品がある。

 常盤新平は、その後、

 ――翻訳業も虚業であると思わないわけにはいかない。しかも、どんなに頑張っても、翻訳が原作をこえることはないはずである。翻訳はそのように空しい仕事であるとも思う。

 と書き、小説も書くようになるのだが、失礼ながら本書『遠いアメリカ』は稚拙な小説で、以前つぎのように書いたことがあるが、その感想は今も変わらない。 

 ――そういえば『遠いアメリカ』(1986)で直木賞を受賞したが、小説家としては代表作といえるものを残していない。山口瞳が直木賞選考委員として強烈に推して、成功したのが向田邦子、失敗したのが常盤新平ではなかったか。

 二人の因縁は続き、最初の小説で直木賞を受賞した常盤新平に対し、小林信彦は、芥川賞3度、直木賞3度候補となるが、受賞に至らない。だが『ちはやふる奥の細道』など多くの傑作を残す。

 常盤新平は晩年も喫茶店好きは変わらなかったようで、そこで書いたような軽いエッセイに老境がにじんでいるようで、当方は好んで読んだ。たとえばこんなフレーズ。セピア色の切ない青春の話など当方は思いだしたくもないので、どんどん話はそれてしまった。

 ――気に入ったものがどんどん減っていき、気に入らないものがつぎつぎに増えている。この世に暮らすとは、そんな感じにつきまとわれることではなかろうか。

 

Amazon常盤新平★遠いアメリカ 

 

 

 

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