白石一文★君がいないと小説は書けない …………人間は生きたいと願うのと同じように常に死にたいと願う動物だ
「短くて波乱に満ちて、ものすごく充実した現実」のような人生を送れば、人はみな「長くて退屈でひどく空しい夢」のような人生から解放されるのであろうか?
それはそうだろうと思う。
だが、人間はなかなかそういう人生を送ることができない。〔…〕
要するに、私たちは自分自身の意志で「長くて退屈でひどく空しい夢」のような人生を選択しているのだろう。特に強く執着しているのが「長くて」の部分だと思う。
どんなに波乱に満ち、愉快な人生であったとしても、それが「短い」というのはどうにも私たちには受け入れがたい。それならば、退屈で空しくても「長く」続く人生の方がまだマシだと考えているのではないか?
突然、不治の病を宣告された人たちが、にわかに人生を輝かせ始めるのは、この「長くて」といぅ条件を否応なく外されてしまうためだろう。そうなると「退屈でひどく空しい」人生にしがみついている必要がなくなる。必然的に「波乱に満ちて充実」した人生へと一歩を踏み出さざるを得ないというわけだ。
どうして私は、このいかんともしがない虚無の心境からいつまで経っても抜け出すことができないのか?〔…〕
一言で言うと、私には「理想の人生」が見つからなかったのだ。
★君がいないと小説は書けない /白石一文 /2020.01 /新潮社
白石一文の作品を読むのはまだ3作目だ。
この作家はエッセイを書かないが、小説の中にエッセイやミニ論文を挿入するし、インタビューには応ずるが対談はしない。したがって雑談とか無用のはなしを書かないので、そのたぐいのエッセイ集がなく、孤高の作家のようにみえる。それが「自伝的小説、堂々刊行」と惹句にあるから、手に取った。だがあまりにも多くのものを包含した作品なので、どの部分を紹介しようかと迷う。
タイトルにある「君」とは、小説家野々村保古のパートナーの魅力的な女性「ことり」である。ことりと初めて知り合い、ともに生活し、巻末のことりの不倫疑惑までの約20年の愛を描いたもの。その最後の部分で小説自体は“破綻”しているが、それはともかく「ことり」という同じ名をもつ別の実在した人物を含めて、三人のことりについて書こうか。
また同じ直木賞作家の父である白石一郎から物を書く秘訣を教えられた話もある。「文章を書くというのは、紙の上で喋るということだ。ペンを使ってちゃんと喋れるようになれば、それでいいのだ」。このエピソードを紹介しつつ、20年以上も前に若い女性の編集者から当方の「だ」「である」調や体言止めの文体を全面修正され打ちのめされた経験でも書こうか。
なんといっても文藝春秋社の社員時代の芥川賞、直木賞、大宅壮一ノンフィクション賞などの裏面を赤裸々に描いた実録小説風な場面や、どうやれば社長になれるか、上司、同僚の出世する方法を描いた会社小説的な部分が受けそうだから紹介しようか。
といろいろ考えたが、この作家には、鬱状態、胃腸の不調、呼吸困難という持病があり、全体の基調が死についての考察である。「50歳を過ぎた頃から、目の前に伸びている道が未来に繋がっているのではなく、過去へと通じているような、そういう感覚に浸る時間が徐々に増えていった。〔…〕なかでもとりわけよく見えるのは、死んだ人たちの姿だ」。
――そもそもこの時代に小説を必要とする人間などどこにもいやしない。(本書)
ここでは死についての考察をランダムに紹介したい(“共感”しているわけではない)。
*
苦痛の中の死は、死それ自体と同等か、場合によってはそれ以上に恐ろしい。
死とは視点の喪失であり、未来に自分が存在しないという現実である。
私の心には一切の不安がなかった。理由はすこぶる単純で、
――肉体的にしろ経済的にしろ、万事休すとなったら死んでしまえばいい。
と腹を括っているのだ。
突然の死はいまでも十分に恐ろしいが、自ら死を選ぶという一点において私に一片の恐怖もない。
わざわざ自殺などしなくとも、人間は、死ぬと決意すればちゃんと死ぬことができる。〔…〕これまで莫大な数の人々が名誉や自己犠牲、信念に殉ずるために死を選んできた。
人生はいずれ死をもって終止符を打つ。だとすれば、人間にはおそらく死ぬに最も適した時期というものがあるのだろう。
確かに、人間は生きたいと願うのと同じょうに常に死にたいと願う動物だ。
私たちに分からないのは、自分が死ぬかどうかではなく、自分がいつどんな形で死ぬかということだけである。
「寿命」とは「生き恥」の対義語なのである。
私自身は、肉体的にしろ経済的にしろ、もうこれ以上生きられないと判断した時点――そこが人生に終止符を打つべき適切な死に時だと考える。
そのときは「死のう」と覚悟を固めるつもりなのだ。
私たちは私たちがふだん信じている何倍から何十倍ものレベルで精神(こころ)の支配を受けており、意識するしないにかかわらず「生きたい」と願っているからこそ生きているのである。
つまるところ、人間は「死にたい」と願えば死ぬのだ。
死のうと思って死ねるのであれば、生まれようと思って生まれることができるのではないか?
死ねる能力は生まれ(られ)る能力と対をなしているのではないか?〔…〕
だから私は、自殺できるということは誕生できるということでもある、と考えている。〔…〕
人間は、他の動物たちとは異なり、自ら生まれようと決心して生まれてくるのだろう。
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