大西暢夫★ホハレ峠――ダムに沈んだ徳山村 百年の軌跡 …………撮影した著者の人柄まで写っているような写真が多数収録されている
門入(かどにゅう)にとってホハレ峠とは、物資の流通だった大切な道だが、
人と人が交差しあい、出会いや希望があり、多くの人たちの想いが詰まった峠道だったに違いない。
春から秋にかけて、田畑の仕事をこなし、その合間をぬってボッカの仕事で現金を手に入れ、冬前になると街に出稼ぎに行った。そして芽吹く春に再び門入に帰ってくる。まだあどけない少女がそうして家族を支えてきた。
★ホハレ峠――ダムに沈んだ徳山村 百年の軌跡 /大西暢夫 /2020.04 /彩流社
揖斐川上流の巨大な徳山ダムによって、岐阜県徳山村が廃村になった。写真家の著者は、そこに住んでいた老女廣瀬ゆきえと1991年に知り合う。
老女の小学生の頃の生活から、隣県の紡績工場への就職、北海道の開拓村での新婚生活、帰郷し、集団移転など、2013年に93年の生涯を終えるまでを、老女の問わず語りや各地に取材を重ね、本書を著した。ダムの沈んだ村に暮した老女の一代記である。
峠といえば山本茂実『あゝ野麦峠――ある製糸工女哀史』(1968)を思いだすが、本書でも14歳から冬は彦根の紡績工場で働いた話がでてくる。
老女の住んでいた地域は水没を免れたが、危険地域に指定され、近くの本巣市へ集団移転する。
「ここは何年経っても旅館に泊まっとるような気がしてならんのや」とつぶやく老女は、やがて20年後にこう語る。
――「正直に言うと、もう金がないんじゃ。ダムができた頃は、一時、補償金という大金が入ってきて喜んだこともあった。でも今はそうじゃない。気付いたころには、先祖の積み上げてきたものをすっかりごとわしらは、一代で食いつぶしてまったという気持ちになってな。〔…〕
金を使えば使うほど、村を切り売りしていくような痛い気持ちや」(本書)
徳山村にかかわって30年、8年がかりで本書を出した著者はいう。
「100年の寿命と言われるダムは、一人の人間の寿命の長さでしかないのだ。わずか一代の時代を乗り越えるために、先代のすべてを食いつぶしてしまったのだ」 (本書)
多くの写真が収録されている。「年の差87歳。徳山ダムが完成した年に生まれた筆者の娘と。(ゆきえさんの自宅にて)」という写真を見ると、撮影した著者の人柄まで写っているようだ。
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