« 大原扁理◆いま、台湾で隠居してます――ゆるゆるマイノリティライフ                …………でも台湾だから、ひきこもりでも大丈夫なんです。 | トップページ | 花田紀凱◆編集者!        …………山本夏彦デビュー作をめぐって »

2021.03.05

朝井まかて◆類                       …………森類が見つけた「小倉日記」から松本清張「或る『小倉日記』伝」の方へ

Photo_20210305074301


「松本さんって、あの小倉日記の方でしたね」
 二人とも、父の日記について口にする時は背筋を立て、粛とした声音になる。

 類が発見し、美穂が浄書した日記なのだ。美穂は体調を崩していたにもかかわらず、蒼黒い顔をして筆を走らせ続けた。

 それが昭和25年のことで、3年後の昭和28年1月、松本清張は『或る「小倉日記」伝』という短編小説で第28回芥川賞を受賞した。候補作となったのは前年の「三田文学」9月号に掲載されたものであったと知り、思わず唸ったものだ。

 日記の発見が公表されて2年ほどしか経っておらず、着想を得てすぐさま執筆にかかったのではないかと推したからだ。〔…〕


 そして才能への羨望と自らへの落胆で、肩を落とした。
 僕はなぜ、こういう小説を思いつかなかったのだろう。
 僕こそが当事者であったのに。

 かたや、美穂は髪の生え際まで真赤に上気させていた。千乗書房の帳場で受賞作を読み終えるや、一気に駈け上るような話し方をしたのだ。

 この小説の主人公、鷗外の小倉日記の行方を捜して生涯を懸けてしまったのでしょう。それで彼が息を引き取った後、鷗外の遺族が日記を発見するという筋立てだわ。この遺族って、私たちのことですよね。

類 朝井まかて /2020.08 /集英社


森 類(もり るい)
 森鷗外には、於菟、茉莉、不律、杏奴、類の5人の子どもがいて、この物語の主人公である類は1911(明治44)年生まれの末子である。パリへ画業遊学、文化学院の美術科講師、本屋「千朶書房」経営、「鷗外の子供たち」(1956)刊行後、 同人誌「小説と詩と評論」に参加し小説を発表。1991(平成3)、死去。

 類は、父に呼びかける。
「僕はこの日在の家で、暮らしているよ。
何も望まず、何も達しようとせず、質素に、ひっそりと暮らしている。
ペンは手放していない。波音を聞きながら本を読み、時には随筆を、そして娘たちに手紙を書いている」 (本書)

 当方は、娘に「こうも綺麗で無邪気な笑顔をする大人っているかしら」といわれる類に興味があるのではなく、唯一の関心事は上掲の「小倉日記」をめぐる話である。

 松本清張は『或る「小倉日記」伝』は、冒頭、鷗外に関する著作をもつ詩人K・M(木下杢太郎がモデル)のもとに小倉市に在住する田上耕作(初出の「三田文学」では上田啓作)という人物から、森鷗外が軍医として明治32年から数年間小倉にいたころの事蹟を調べているが、同封のその草稿が価値あるものかどうか見ていただきたいという趣旨の手紙が届く。

「四十年の歳月の砂がその痕跡を埋め、も早、鷗外が小倉に住んでいたということさえこの町で知った者は稀だと」と田上は書いている。小倉時代の鷗外の日記が所在不明となっているため、その空白を田上耕作が埋めようとする試みである。

 清張の小説の主人公田上耕作は、身体障害者である。幼少時から、口はだらりと開けたまま言葉がはっきりせず、片足の自由もきかなかった。そのハンディを抱えながら、10数年にわたって、母や友人の協力を得て、鷗外の足跡を訪ね回り、昭和25年、25歳で死ぬ。その翌年……。

 ――昭和26年2月、東京で鷗外の『小倉日記』が発見されたのは周知の通りである。鷗外の子息が疎開先から持ち帰った反古ばかり入った箪笥を整理していると、この日記が出てきたのだ。田上耕作が、この事実を知らずに死んだのは、不幸か幸福か分らない。(松本清張『或る「小倉日記」伝』)

 田上耕作は実在の人物である。鍛冶町の森鷗外旧居を探りあてたことで知られる。ネットを調べると、曽田新太郎「セピア色の詩風景」という一文に出会った。こんな一節がある。

 ――松本清張の「或る『小倉日記』伝」は昭和26年の初夏に朝日新聞北九州版に載った小さな記事がきっかけで書かれた。それは、鷗外研究家・田上耕作の七回忌を伝えるものだった。清張は誰もが見落とすような、あるいはさっと流されるような小さな記事から小説を作り出す手法を生涯のなかで何度も用いている。この時もそうだった。

 田上耕作が鷗外の足跡を手繰っていったように、清張もまた耕作の足跡を手繰っていった。だが耕作が生涯かけた原稿類もまた戦時中に某住職に預けたが、その後行方不明となっていた。

「セピア色の詩風景」には驚くべきことも書かれている(周知の事実らしいが)。「実在の田上耕作は、小説の主人公のように不遇の人でもなく、暗い生活も送っていなかった。また、神経麻痺と栄養失調のために病の床で寂しく死んでもいない。実在の田上耕作は昭和20年6月29日の門司空襲で死亡した」。享年45歳だったという。

 当方の古いブログに、「小倉の松本清張記念館を訪れたことがあり、復元された書斎だけが印象に残っている。そしてご当地ものとして『或る「小倉日記」伝』を読み、以来、当方にとってもっとも好きな清張作品となった」と書いている。

 しかし実際に初めて読んだのは高校生の頃で、読後の「切なさ」が記憶から離れずにいた。当時教科書で習った国木田独歩『忘れえぬ人々』以来、「切なさ」が今もかわらぬ当方の小説やノンフィクションの評価指標となっている。

 

 

 

|

« 大原扁理◆いま、台湾で隠居してます――ゆるゆるマイノリティライフ                …………でも台湾だから、ひきこもりでも大丈夫なんです。 | トップページ | 花田紀凱◆編集者!        …………山本夏彦デビュー作をめぐって »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 大原扁理◆いま、台湾で隠居してます――ゆるゆるマイノリティライフ                …………でも台湾だから、ひきこもりでも大丈夫なんです。 | トップページ | 花田紀凱◆編集者!        …………山本夏彦デビュー作をめぐって »