森 功◆鬼才 伝説の編集人齋藤十一 …………新潮社OBによる齋藤十一と「週刊新潮」の“評伝”
しかし、文士が集まって出版事業を始めた文藝春秋と新潮社では、おのずと出版社としての性格が異なる。
なにより齋藤は作家を志したこともなく、一冊の本も描き残していない。一編の著作もなく、残っているのは名タイトルだけだ。
とどのつまり齋藤は小説からノンフィクション、評論にいたるまで、その構想を示し作品を生み出すプロデューサーだったのである。
編集者に徹してきたからこそ、ものすごい数の作家や作品を世に送り出せたのだろう。文芸誌「新潮」で20年も編集長を務め、週刊新潮で40年という長さにわたって誌面の指揮を執ってこられた。
◆鬼才 伝説の編集人齋藤十一 森 功 2021.01/幻冬舎
齋藤十一(1914~2000)は、死去するまで新潮社に長く君臨した。著者森功はノンフィクション作家として活躍する以前、新潮社で「週刊新潮」次長などを務めた。その新潮社OBによる齋藤十一と「週刊新潮」の“評伝”である。
毎週金曜日の正午過ぎ、野平健一常務と山田彦彌編集長が齋藤の部屋に入る。“御前会議”とよばれた「週刊新潮」の編集会議だ。4人の編集次長はもとより総勢60人の編集部員は参加できない。20枚近い企画案を齋藤が○×と印をつけていく。決めるのは齋藤一人だ。こうして次の号に掲載する6つの特集記事のテーマ選ばれる。
また、のちに「新潮45」リニューアルの際、わずか4人の編集部員の1人だった伊藤幸人(のち取締役)は、“新潮45御前会議”での齋藤の発言を隠し録りしている。齋藤は独演会を続けながら、1mをこえる巻紙を取り出した。そこに記事のタイトルがびっしりと書かれていたという。
当方は「週刊新潮」といえば、谷内六郎の表紙絵、山口瞳「男性自身」、ヤン・デンマン「東京情報」である(新潮より多く愛読したはずの「週刊文春」では小林信彦のコラムと「文春図書館」しか思い浮かばない)。
週刊誌の特集記事は、取材コメントをつないで物語にするいわゆるコメント主義だが、この原型を編み出したのは、アンカーマンだった井上光晴だ、と本書で知った。
――これが世にいう週刊新潮の「薮の中」記事スタイルとなる。資料や物証がなければ、当事者の証言でそれを補い、それでも裏どりが難しければ、怪しさや疑いを匂わせながら書き手の捉え方を読者にぶつけて考えさせる。〔…〕
新聞では書けない疑惑報道が、週刊誌の真骨頂と呼ばれるようになったのも、週刊新潮の薮の中スタイルからである。その原型をつくったのが井上光晴であり、のちの週刊誌はみなそのあとを追った。(本書)
先の伊藤幸人は、「齋藤を天才たらしめる3つの要素」をあげる。
第1。高貴な教養への志向、ある種精神的貴族でありながら「女とカネと権力」など俗的な興味をもっていること。
第2。言葉のセンス。頭のなかにつまっている古今東西の有名な本のタイトルや名台詞、箴言をちょっと曲げたり、変化させたりして独自のコピーにする。
第3。その凄さは、黒子に徹したこと。「齋藤さんは生前、いっさい『これは俺がやった仕事だ』と言わなかった」。
――その齋藤が会社を去ったあと、新潮社では2001年のフォーカスの休刊、09年の週刊新潮の誤報、18年の新潮45の廃刊、と受難続きだ。(本書)
「墓は漬物石にしておくれ」と言い残した齋藤の墓は本物の漬物石だった、と著者は書く。「これはひょっとすると、本人が自任してきた俗物を意味しているのではないだろうか」。
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