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2021.07.13

砂原浩太朗◆高瀬庄左衛門御留書             …………人は、しょせん生きているだけで誰かのさまたげとなるもの。均(なら)して平らなら、それで上等

202101

 


 志穂が畳に古布をひろげ、紙を置く。絵筆と硯をすえて庄左衛門に向き合った。瞳にはすでに真剣な輝きがやどっている。茜色の小袖につつまれた軀から、高まる鼓動まで伝わってくるようだった。〔…〕

 くつろいだ表情となった志穂が、あらためて紙面にむかう。こんどは躊躇なく筆をすべらせた。


 頬を上気させ、鬢(びん)の生え際に汗をうかべている。心なしか、野を奔る生きもののごとき匂いがただよってきた。

 

 襟足からこぼれたおくれ毛が、鬣(たてがみ)のようにそよいでいる。

この女の絵を描いたとき、と庄左衛門は思った。おれもこのようであっただろうか。

 

砂原浩太朗◆高瀬庄左衛門御留書  2021.01/講談社/◎=おすすめ


 帯のコピーに「山本周五郎、藤沢周平といった先達に連なるのではないか(立川談四楼)」と賛辞がある。当方、時代小説でほぼ全作品を読んでいるのは山本周五郎、藤沢周平だけである。これは読まなければ……。

 藤沢周平以降、十数人の時代小説作家が直木賞を得たが、当方にぴったりきたのは、乙川優三郎(暗い作品が多かったが、のちに現代小説に転向)、そして青山文平。

 大いに気に入った青山文平は『遠縁の女』(2017)まで全作品を読んでいる。が、違和感があった。それは長篇でも短篇でも前半、後半でテーマが変わってしまい、登場人物は同じでも二つの作品をつなぎ合わせたような作品が多いこと。その後、『跳ぶ男』の能楽の蘊蓄、『泳ぐ者』の食道楽談義など、著者が自らの世界に入ってしまい、読者である当方は置き去りにされ、終わりまで読み切れなかった。

 そこに本書砂原浩太朗『高瀬庄左衛門御留書』が登場。藤沢周平『三屋清左衛門残日録』に似たタイトル、『蝉しぐれ』を思わす内容。帯のコピーにこうある。

――神山藩で、郡方を務める高瀬庄左衛門。
五十を前にして妻を亡くし、息子をも事故で失い、
ただ倹(つま)しく老いてゆく身。
息子の嫁・志穂とともに、手慰みに絵を描きながら、
寂蓼と悔恨の中に生きていた。
しかしゆっくりと確実に、藩の政争の嵐が庄左衛門に襲いくる。

「御留書」とは、庄左衛門が各村の庄屋から申告された収穫高や、みずからおこなった検見、見聞きした現地のようすなどを記した帳面のこと。庄左衛門は、のちに息子啓一郎の嫁志穂に絵を教えるなど、絵が特技という五十男。

 ――筆いっぽんで身を立てようなどとは考えたこともない。なにより気力がのこっていなかった。いままで五十年そうしてきたように地を這う一匹の虫として朽ちてゆくつもりだったし、それをことさら無念とも考えていない。 (本書)

 作品は、息子啓一郎が郷村廻りに出かけるところから始まり、啓一郎、嫁・志穂、庄左衛門本人の紹介が終わったところで、突然啓一郎の遺骸の場面となる。その死はジグソーパズルの最初のピースで、死の説明はない。

 夫を失った志穂は実家に帰されるが、庄左衛門宅へ絵を習いに通ってくる。

 同僚の金子信助とのこんな場面がある。

「庄左……」
 金子がにわかに真顔となる。「われらは友垣だ」〔…〕

 金子も盃を置き、まっすぐこちらを見つめてくる。
「そのうえで言うが」
 声がふだんより重くなっている。庄左衛門は、動悸がにわかに高まってゆくのを感じていた。


「わしも、志穂どのがここへ出入りすること、快く思っておるわけではない」
鈍い痛みに胸を打たれる心地がした。息づかいがはやくなり、喘ぐように喉が鳴る。金子がしずかに語を継いだ。
「中傷など口にしたことはないし、これからもするつもりはない」痛みをこらえるごとき影が眼差しをよぎる。「が、さよう感じる者がいることは、承知しておいたほうがよい」
「…‥痛み入る」 (本書)

 作品はつねに過去へ過去へとさかのぼる。庄左衛門は、単に絵を描く老人ではない。富田流の影山道場で宮村堅吾、碓井慎造、原田壮平の20歳前後の三人は、道場を継ぐ(すなわち師の娘吉乃の婿)を競った剣術の男だった。(庄左衛門の養子前の名が原田壮平。重要な登場人物に同様に二つの名前がある)
 
「人などと申すは、しょせん生きているだけで誰かのさまたげとなるもの」「されど、ときには助けとなることもできましょう……均(なら)して平らなら、それで上等」

 小説は、ゆっくり、ゆっくり、ジグソーパズルのピースが埋まってゆく(そのスピードにいらいらするが)。

 当方が好きな時代小説は、“武家もの”では、主人公の挫折とその後の「始末」、“市井もの”では切ないほどの愛情の「結末」である。


 その二つをあわせもつ本書は、帯に「神山藩シリーズ第1弾」とある。

 

 

 

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