溝口敦◆喰うか喰われるか 私の山口組体験 …………死ねば、その者を守り、隠してきた「取材源の秘匿」も解消されるべきだ
ノンフィクションや報道の世界では取材源の秘匿ということがいわれている。取材し、書くことで、取材され、書かれた人たちに迷惑を掛けるわけにはいかない。だからその情報の出所を隠し、ぼやかし、暖味にする。
しかし、かつて取材された人が死ねば、取材源の秘匿はとりあえず解禁されるのではないか。その人にとって秘匿すべき姓名も立場も職責も地位も解消されたにちがいない。
ことによると死後も秘匿されるべき秘密はあるかもしれない。しかし、私は「殺菌には日の光に晒すのが一番だ」という言葉を信奉する者である。
基本的には、何ごとも露わにしたほうがいい。死ねば、それまでその者を守り、隠してきた「取材源の秘匿」も解消されるべきだ。
本書中には、いままで私が隠してきた情報源の開示がいくつか記されている。
◆喰うか喰われるか 私の山口組体験 溝口敦/2021.05/講談社/◎=おすすめ
かつて当方は「神戸八景」という一文を書いたことがある。その八景の一つが神戸地裁前にあった山口組三代目旧宅兼事務所であり、その舞台は溝口敦が描いた『山口組ドキュメント――血と抗争』(1968)である。
ノンフィクション作家溝口敦(1942~)のデビュー作である。そして半世紀、本書は取材活動を中心にした回顧録であり半自叙伝である。
同時に山口組三代目時代から六代目山口組、神戸山口組、任侠山口組に分裂した現在までの“小型の山口組通史”である。
溝口敦は、1965年に徳間書店に入社、翌66年に創刊された月刊誌「TOWN」を担当(当時から雑誌好きの当方は、月刊誌にしては珍しく“中綴じ”の斬新なこの雑誌を愛読したが、すぐに廃刊になった)。68年徳間を退職し、『山口組ドキュメント――血と抗争』を刊行、ノンフィクション作家溝口敦が誕生した。
ノンフィクション作家としての溝口敦の姿勢を本書から……。
その1。無署名原稿は書かない。
原稿を署名で書く者の特権は、その者の主観で書いても読者に許される点である。しかし、書く者の主観が読者に受け入れられるためには、同時に記された客観的事実で主観が支えられていなければならない。読者に納得されてこそ、その者の著作たり得るはずだ。
その2。「ペンの暴力」という一面があることを自覚する。
とりわけノンフィクションには、売り買いする商品である以外に、文化性という属がある。たとえば書かれたことで顕彰された名誉、逆に毀損してしまった人の尊厳、読者に真実を知らせたという貢献、読者に虚偽を広めたという社会悪など、物理的な力ではなくても「ペンの暴力」という一面があることは否定できない。
その3。記事のタイトルの決定権を持たない。
自分が書いた記事のタイトルづけは編集権の枠内、基本的に著作権は及ばずと理解していた。タイトルづけは編集部が記事をどう読者に売り込むか、売り方の問題であって、ライターは決定権を持たないという理解である。
その4。取材先からカネを受け取らない。
当たり前のことだが、一度として取材でカネを受け取ったことがない。車代として差し出されるカネも拒否した。ただし飲食の接待は受けた(ゴルフや麻雀などはやったことがない)。その場合、お返しで奢ったことも、金額的に奢り返せなかったことも、何か後で物を贈って糊塗したこともあるが、カネと性サービスは受け取ったことがない。
溝口は半世紀にわたって山口組のウオッチャーである。溝口やメディアと暴力団とはもちつもたれつ、相互に利用し合う関係にある。溝口は失礼ながら、安倍・菅官邸が代弁者として使う政治評論家田崎史郎のような存在かもしれない。田崎が官邸の内幕を語るようなものだ(語らないが)。
溝口にとって暴力団幹部にも好き嫌いがある。当方は未読だが、『荒らぶる獅子 山口組四代目竹中正久の生涯』(1988)の取材以来、竹中正久の実弟竹中武、正の二人に全幅の信頼をおいているのが分かる。4代目竹中正久といえばニュース映像で“吠える男”という粗暴なイメージしかないが、三代目姐が推挙するだけの魅力が竹中正久にあったに違いないと、今になって『荒らぶる獅子』を読んでみたくなった。嫌いな幹部も実名でその理由を明かしている。
本書はなんといっても組幹部と著者、編集者との取材をめぐるやり取り、かけひきが圧巻である。「いままで私が隠してきた情報源の開示」をして、スリリングである。
山口組は、現在、六代目山口組、神戸山口組、任侠山口組(「絆会」)の三つに分裂しているが、著者は「もはや『生存できず』が山口組に限らず、全ヤクザに突きつけられた解かもしれない」と終章に記す。が、あとがきでこうも言う(末尾に“笑”と付け加えればよかった)。
――山口組はご存じの通り日本を代表する暴力団だが、憎むべき敵、壊滅すべきだ、と言い切れない曖昧さを、私は心のうちに感じている。〔…〕
権力を持って悪いことをする人より、彼らのほうが可愛げもあるし、救いもある。世の中、四角四面でないほうが多くの人にとって過ごしやすいのではないか。
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