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2021.09.18

工作舎:編◆最後に残るのは本        …………本にまつわる1000字の名品エッセイ67篇

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 ハバナの図書出版協会でもらった雑誌の一つに、フィデル・カストロの写真が大きく載っていたので、ミーハー的なカストロ・ファンである私は、その雑誌を少し熱心にめくって見た。〔…〕

 私がちょっとにっこりしてしまったのは、大きな活字でしるされたカストロの次のことばであった。

「最後に残るのは本だ。」

 これはカストロの場合、「自分が死んでも、自分のことを書いた本は残る」という意味かもしれないし、「作家が死んでも作品は残る」かもしれないし、「いかにインターネットがはびこっても、書物は最後まで残る」ということかもしれない。〔…〕

 とくに、ここで「最後に」に相当する語がúltimo で、これは英語では「究極の」というニュアンスの強い語だから、私などは「本こそは究極のもの」と強引にねじ曲げて想像してみたりする。

*多田智満子――最後に残るのは本

 

◆最後に残るのは本  工作舎:編/2021.06/工作舎


 

 工作舎50周年記念出版として、工作舎の本にはさみこんだ新刊案内「土星紀」に連載した67名の書物をめぐるエッセイをまとめたもの。

 当方は工作舎の本は無縁である。畏敬する内田繁の『茶室とインテリア――暮らしの空間デザイン』(2005)が唯一手にした本である。

 本や読書を素材にした全編みごとなエッセイが網羅されている。わずか1000字前後なので、要約や切り抜きは困難だが、あえていくつか、以下引用。

 

*坂村健――匂いのない「電子の本」

「電子の本」は従来の紙の本を置き換えるものではなく、全く別のものであるという認識がないとうまく作れない。

ただ単に紙の本をレーザーディスクやCD-ROMに入れても全く面白くないのである。


 こういうことを少し注意して「電子の本」に付き合ってみる。本を読む、いや見る楽しみはさらに広がる。しかし、ただ一つ残念なのは、あの本の匂いがなくなってしまうことである。

 

*池上俊一――黙読の誕生

 著者というのが口述者であり、読者というのが朗読者にほかならなかった時代とくらべて、〔…黙読が採用されるようになって〕より重要な意味があったのは、一人で黙読する習慣がプライヴァシーの領域の拡大・充実と結びついたことである。

 黙読とそれを想定した著作活動は、朗読によって他人の耳にはいることを考慮しない密やかな作業となった。皮肉や風刺、またとくにポルノまがいのエロティシズムが宗教文学にまで大量に侵入する。

 だが、逆説的なことに、このプライヴァシー拡充は、俗人たちの霊性のかつてない深化と高揚にも貢献した。一人で敬虔に宗教書を黙読する習慣は、その読者の内面で、神との個人的な結合を追求するまたとない手段となりえたからである。

 

 

*鶴岡真弓――コデックスのコード

「本の歴史において、グーテンベルクの印刷術発明に比肩する革命は、コデックスの登場にあった」(K・ヴァイツマン)


「コデックスCodexとは「冊子」のこと。一枚一枚のフォリオを束ねてページ仕立てにしたこの書物の形態が、紀元一世紀末頃、従来の「巻物」形態にとってかわったとき、西欧の書物は大きく飛翔した。〔…〕

 文字言語の量的拡大は、1970年代以降の人類が手にしたフロッピーディスクの比ではなかった。ページ仕立てに成長した本は、書物に「文字の王国」の繁栄をもたらした。と同時に、「図像」の興隆をもたらした。

 

 

*風間賢二――出会いと関係性の読書

 どうやら、最近の若い人は、〔…〕読書における“出会い”と“関係性”ということに無頓着で、一冊の本は、それだけで完結したひとつの世界を構築しているものと思ってしまうらしい。〔…〕

 たとえば、芥川龍之介の短編集を一冊読む。すると当然、アンブローズ・ビアスの名を知ることになる(たいていの「解説」には、芥川のビアス好きのことは書いてある)。ビアスと出会い、彼の作品と接すれば、どうしたってポーにまでさかのぼりたくなるし、その両者をリンクするフィッツ=ジェイムス・オブライエンといった超マイナーな怪奇幻想作家にまでたどりつき、そこからはSFやファンタジー、ホラーへと興味は広がっていく、〔…〕

 まあ、ようするにハイパーアクストな読み方をしているかぎり、読書行為に終わりはないし、常に新しい作家や作品を発見することにもつながるのである。

 

 

*佐倉統――読み人知らず

母は自分が大学生だったときの話をしてくれた。


彼女が伝え聞いた話では、歌人・島木赤彦の万葉集の講義は、歌をひとつ詠んでは、本を閉じ、宙を仰いで、「いいですなぁ…」と嘆じる。その繰返し。それだけ、だったというのだ。〔…〕

 感動とは、本来コミュニケーション不可能なものだ。このことはみんな知っている。だけど、それを実地に示すことは難しい。そんじょそこらの人間には、真似のできない技だ。昔ぼくが軽蔑した万葉の講義は、島木赤彦ならではの、ある種の高みに達した境地の開陳、だったに違いない。

 

 

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