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2021.09.21

白石一文◆我が産声を聞きに    …………売り言葉買います赤いコスモス群/初みくじ凶なり戦い甲斐ある年だ(國兼よし子句集)

202107


 自然気胸の既往症を持ち、特段に感染防御に気を配らねばならない、つまるところコロナの危険性を常人よりも強く肌身に感じざるを得ない名香子にとって、良治の家出は相対的に小さな危機に過ぎないのではないか?

 たとえ良治が家を出たとしても、名香子の生命が脅かされるわけではない。

 薄っすらとではあっても日々、生命の危機にさらされる日常を生きていれば、夫が愛人をこしらえようが、家を飛び出そうが、たとえ夫婦別れになってしまおうが別にどうということもない…… 。

 そういう一種の諦念が自分の心のなかに根付いているのではないか?

 そこまで考えたところで、
「なあんだ」
 と名香子は小さく呟いていた。

 ――それを言うなら、良治の方がもっとそうだろう。
 早期とはいえ肺がんの告知を受けて、彼もまたひたひたと我が身に生命の危機が忍び寄っているのを思い知らされたのだ。

 そうなってみれば、長年一緒に暮らした妻を捨てようが、わずか一年前に好きになった相手のもとへ転がり込もうが、会社を辞めようが、要は自分の勝手我儘、したいようにすればいいと開き直ったとしても何ら不思議ではないのではないか?

 

◆我が産声を聞きに    白石一文/2021.07/講談社


 名香子(47)は、夫・良治(54)にがんセンターへの同行を頼まれ、そこで良治が初期の肺がんであると知る。帰りのレストランで、良治が突然別れ話を切り出す。「本当に肺がんだと分かったら、そのときはちゃんと話そうと決心していたんだ」、「実は、好きな人がいるんだ」。

 スリリングな出だしだが……。良治は大手電機メーカーのエンジニア、名香子は英語学校の非常勤講師。大学で建築を学ぶ娘真理恵がいる。結婚22年、都下郊外の住宅地に住んでいる。「結婚生活は穏やかで平和で、振り返ると何一つ不満を言うべきことなんてない」が、「最後のチャンスを掴み取って、今後の人生を、彼女と一緒に生きていく人生に変えようと決めた」相手は、1年前に偶然再会した高校のときの同級生。

 連絡先とパソコンで打った「これまで長いあいだお世話になりました。誠にありがとうございました」という便箋1枚を残したまま、良治は去っていき、そのまま自宅に戻ることはなかった。

 ――どんなことでも打ち明け合う夫婦も多いのだろうが、名香子と良治の場合はそういうわけではない。二十年余り連れ添ってきて、むしろ互いの時間と距離を大切にし合うことでこれまで波風立てずに過ごしてきた。 (本書)

 ――なんだ……。死んだはずの記憶って、脳の奥でピンピンしているんだ。
と名香子に思いだしたくもない嫌な記憶がよみがえる。

 ロンドンに留学中に知り合った富太郎という証券マンに、当時元町にあった海文堂という書店で2年後に偶然再会する。その後週末婚のような生活が2年近く続き、結婚を前提に同棲する。名香子25歳のとき。灘駅近くに新居が決まり、富太郎が名香子の両親に挨拶に出向くという。富太郎が言う。

 ――そうやって具体的にナカとの将来を考え始めているうちに、自分でもどうしてたか分からなかったんだけど、これってちょっと違うんじゃないかって感じるようになったんだ。
これって、何かが違う、どこかが違うって。もちろんナカのことが嫌いになったわけじゃないし、いまでも前と変わらずに好きだと思う。〔…〕

――自分がどれだけ滅茶苦茶なことを言っているのかもよく分かっているつもりだ。僕は心の真実に触れてしまった。そうなった以上、自分に嘘をついてこのままナカと付き合い続けることはできないし、それはナカにとっても凄く不幸なことだと思うんだ。(本書)

 こうして富太郎は、同じ職場の2年先輩の女性の元へ走る。

 良治といい富太郎といい、この種の男は“不評”かもしれない。女性の読者はこの小説を嫌いそうだ。当方は、かつて作家が住んだ神戸が舞台に一つなので親近感をもって読んだが、実はもう一つ読み続けた理由がある。

 白石一文という作家は、エッセイを書かない。インタビューには応ずるが対談はしない。したがって雑談とか無用のはなしを書かないので、そのたぐいのエッセイ集がなく、孤高の作家のようにみえる。

 だが、小説の中にエッセイやミニ論文を挿入する。数作しか読んでいないが、そこに違和感を感じていた。ところが本書では、どんなエッセイ、ミニ論文が挿入されるのかと、むしろ楽しみにしながら読め進めた。

 本書では國兼よし子句集『枯向日葵』(2020・短歌新聞社)が紹介されている。
 昭和10年生まれ、北海道札幌市在住。自由で意外性ある作風で、句会メンバーを刺激し続ける、85歳の「エース」。「ついに第一句集刊行」と略歴にある。

 本書では、明石に住み句会を主宰している名香子の母が、良治のことで悩んでいる名香子に、友人からもらった句集だけど読んでみたら、と紹介するかたちをとっている。360ほどの句のうち約50句が転載されている。当方の好みで10句選んでみる。

売り言葉買います赤いコスモス群
おぼろおぼろ柩の窓はワタンが閉じる
ほどほどに生きて敬老の日の粗品
紫木蓮みだらな奴から散るがいい
捨て家に桜が咲いた通りやんせ

四万六千日長く生きたら魔女になる
隣る世へひょいと近道千本吉野
人工呼吸器はずしましょうねクリスマス
ひろいやすい骨になりたいふゆのつき
初みくじ凶なり戦い甲斐ある年だ

 名香子は、最後の「初みくじ」の句にだけ丸印を振った句集に母らしい激励に仕方だと感じる。さて、読者は名香子に代わって“激励”されただろうか。「売り言葉買います赤いコスモス群」の心境に至っただろうか。

 

 

 

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