加藤秀俊◆九十歳のラブレター …………物忘れがあると、ふたりで「あ、ニンチだ」といって笑い飛ばすことにした
老人になれば物忘れがヒドくなる。ぼくはかつて書いたエッセイのなかでそれを「忘却力」と名づけたが、とにかくなんでも忘れる。こういうのをむかしは耄碌といい、健忘症といい、ボケといっていた。それが「痴呆症」になり「痴」という字がよくないというのでいつのまにか「認知症」という名でよばれるようになった。
ぼくたちはだんだん初期認知症になりはじめていたのである。でも、このことばをそのまま深刻につかうことにはおたがい抵抗があった。
だから、そういう物忘れがあると、ふたりで「あ、ニンチだ」といって笑い飛ばすことにした。
だって、ふだんの暮らしにたいした実害があるわけではないではないか。
先週おコメを買ったばかりなのに、今週も買う。べつだん困ったことではない。〔…〕いろんなニンチで怒ったり、言い合ったり、不機嫌になったりすることもあったが、おおむね最終的には「あ、またニンチだ」と指さしあって、あはは、とおたがい笑ってすませた。
◆九十歳のラブレター 加藤秀俊/2021.06/新潮社
あとがきの冒頭に「2020年2月の立春を待って、親族や友人知己にこんなハガキを送った」とあり、以下の文面……。
――65年間にわたって苦楽をともにしてきた妻、加藤隆江を失いました。昨年9月16日のことでした。その前日はふだんとかわらず夕食をともにし、ワインをかたむけ、それぞれの寝室で就寝したのですが、翌朝、様子をみにゆくとすでにこと切れておりました。享年89歳。虚血性心不全による突然死でした。
それから5ケ月、鬱々たる日々をお察しいただくことも心苦しく、ためらっておりましたが、ようやく心身ともに一段落つきましたのでここにお知らせ申しあげます。 (以下、略)
「あなたのいない毎日に、ぼくは慣れることができない」というキャッチコピーの“愛妻記”、“妻恋”本である。そういえば同じ新潮社から「そうか、もう君はいないのか」(城山三郎)というタイトルの本もあった。
小学校の同級生で、学生時代に再開し、24歳で結婚、そして60余年。戦争体験、アメリカでの新婚生活、京都での家作り、大きな波風もない著名な社会学者とその妻の“人生の物語”。晩年、二人にとってやや厄介なのは認知症である。
2017年6月、理事会出席を失念した。以降、3年の間に……。
・デパートの店内放送で呼び出し。「どこで待ち合わせるのか忘れちゃったのよ」と妻)。
・携帯電話を失う(1年後くるまのシートの下に)。
・アクセルとブレーキを踏み間違え、タクシーに追突。
・白内障手術に際し妻を一人にできないので、二人で一泊入院。
2019年9月、90歳を目前に、妻・隆江死去。
というわけで、先に紹介したように親族や友人知己に死亡通知のハガキを送る。辛口の感想を述べると、この本は夫妻のラブストーリーを夫が妻に向けて語ったものであり、“饅頭本”のたぐい、「私家版」で刊行すべき本ではなかったか。
当方が初めて加藤秀俊の著書を購入しのは『身辺の思想』(1963・講談社)である。毎日新聞に「現代文化辞典」として匿名で連載されたもの。樋口謹一、多田道太郎、加藤秀俊、山田稔の共著である。奥付の著者名に樋口謹一(代表)とのみ記されており、書誌として加藤の名が出てこず、加藤の著作リストにもない。
身辺にある腕時計、帽子、日記、パチンコ、ビール、温泉など身近な“くだらないもの”を俎上にのせ、自由にその意味をさぐり屁理屈を並べたてる。“発想の世界での試掘”であると「まえがき」に書いている。大宅壮一がカバーに「しゃれた“智的装身具”の一つとしておすすめしたい」と宣伝に一役買っている。
執筆メンバーは京大人文科学研究所の助教授、講師、助手という俊英たちである。加藤は、「著書に『中間文化論』『テレビ時代』など。徹底した機能主義に立つ。趣味は機械類とモダン・ジャズ」と紹介されている。
当時、32歳。同年、『整理学――忙しさからの解放』という大ベストセラーを生む。このころからアイデアマン揃いの人文研の学者たちは出版界でもてはやされ、当方も愛読した。
そして91歳の今、本書のあとがきには、……。
――この書物をそっちの世界からみているあなたが、
「いやあねえ、どうしてこんな本を書いたの? 恥ずかしいし、みっともないじゃない、イヤだわ。好きなようにするのもイイカゲンにしてよ。でもあなた、毎日、よくお掃除や洗濯をしたり、お献立をくふうしたり、ゴミ出しも忘れてないわねえ。庭もキレイになってるじゃない。あなたってひと、ちょっと見直したわ」
といっているのがきこえてくる。
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