映画・テレビ

2007.05.04

小林亜星・久世光彦ほか■ 久世塾

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向田邦子さんはいつもこういう音楽を使ってくれとおっしゃって、例えば『あ・うん』(NHK80年)というドラマでは、イタリアの17世紀の歌劇「アルチーナ」の「プレリュード」という音楽を上手に使ってなかなか説得力があった。

あの方は『阿修羅のごとく』(NHK7980年)でも、トルコの軍楽隊の音楽みたいなものを持ち込んできて「これを使ってドラマのテーマにしたい」とおっしゃって、それが非常に効果があってすばらしかったと思います。

また、『寺内貫太郎一家』(TBS74年)の中でも、チャイコフスキーの「舟歌」というピアノ独奏曲をあるシーンで上手に使った。あれも向田さんが指定しました。

そういう劇作家の人はあまりいらっしゃらないのです。非常に音楽にも詳しいし、自分の好みがあるし、それに対する思い入れもある方で、そういうケースというのは多くはないです。向田先生は稀有な人でした。

あまり人の目に触れないような、しかし、魂をゆすぶるような音楽を彼女はいつも自分の気持ちの中に持ち続けて、そういうものから発想してドラマの魂をつくりだしていたよぅな気がします。

――小林亜星 「人を『感心』ではなく『感動』させることです。」

■ 久世塾|久世光彦・小林亜星ほか|平凡社|200702月|ISBN9784582833485

★★★

《キャッチ・コピー》

21世紀の向田邦子を作ろう」というキャッチフレーズのもと開講されたシナリオライター養成講座『久世塾』。一流講師陣による特別講義録。

*

久世 光彦■ 冬の女たちー死のある風景

久世光彦■ マイ・ラスト・ソング最終章

久世光彦■ 蕭々館日録

久世光彦■ダニーボーイ

久世光彦■飲食男女―おいしい女たち

久世光彦■家の匂い町の音

久世光彦■私があなたに惚れたのは

久世光彦■美の死

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2007.04.11

■ 今平犯科帳――今村昌平とは何者|村松友視

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「楢山節考」は、俳優・緒形拳にとって自分の歴史から消せないものだと自ら語っていたが、その現場からして異様なものであったようだ。

緒形拳 南小谷の白馬が向うに見えるけもの道を、何キロぐらいでしょうか、登ったり降ったりしながら、ずーっと奥の方に行くと、茅葺きの大きな家の倒れかかったのが、三軒ほどあるんですね。監督に「これを今から直すから、手伝え」って言われて、大道具さんや小道具さんと一緒になって、とんかち持って作業を始める。〔…〕

逃げないように、そこに隔離されるように、役者がいっぱい……。あれは、足かけどのくらいかかったんでしょうね。新宿御苑でカラスを取ってきて、そのカラスが産んだ子を、カラス係が育てて……。何て映画だろうなって。

僕は芝居から出てきたからよけいそうなんでしょうけど、“演じるんだ”とそれまでずっと思ってたんですよね。“演じない”ことの面白さっていうのを、細かいことはどうでもいいんだっていうのを、あそこで体験しました。

■ 今平犯科帳――今村昌平とは何者|村松友視|日本放送出版協会|2003 06月|ISBN9784140807996

★★★

《キャッチ・コピー》

緻密なシナリオ。執拗なリハーサル。ロケ地に畑をつくって耕し、カラスを育てる。役者の生理を極限を超えてえぐる演出。完成フイルムを平気で捨ててまたつくる…不条理だが条理。小説家村松友視が、今村映画の縁者たちに取材し、巧妙な“禁じ手”手法でまったく新しい“今平”ワールドを探りあてた書き下ろし。

memo

「楢山節考」は、かつての木下恵介作品とは、まったく別の作品となった。姥捨山伝説を、きわめて様式的につくり上げた木下作品に対して、オールロケという今村流の方法論が、別世界をつくりあげた。“オールロケ”という撮影上の形式ではなく、その方法から派生するさまざまのことが、ことごとく木下作品の色合いをくつがえし、まったく新しい現代的なテーマを引きずり出した。これは、あらゆる作品づくりにさいしての今村昌平流であり、この作品にかぎった特徴ではあるまい。確乎たる木下作品が存在したゆえ、よけいに今村流の冴えが顕著にあらわれたというケースなのだろう。(本文より)

*

長部日出雄■ 天才監督木下惠介

村松友視■ ヤスケンの海

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2007.04.10

■ 天才監督木下惠介|長部日出雄

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助監督についた吉田喜重は、東大文学部の同期生で中央公論の編集者になった井出孫六に、ゲラの段階で見せてもらった作品を、「面白い不思議な小説がありますよ」と監督に推薦した。

第一回中央公論新人費の受賞作に決まった深沢七郎『楢山節考』である。

一読して、すっかり気に入った恵介は、すぐにプロデューサー小梶正治を通して製作本部長高村潔の許可を取り、映画化の権利を獲得してもらったが、社長城戸四郎が強硬に反対した。

年老いた親を山に棄てるなどとは、あまりにも酷薄無残であり、松竹映画が長年信条としてきた家族愛、人間愛の精神に反するも甚だしい……というのである。

原作を読んで、アイデアを練るにつれ、どのようなスタイルで映画化するかが固まってきて、のちに明らかになる独自の構想に取り憑かれた恵介のほうも、強く希望して譲らない。

会社側との話し合いのなかで、そのまえに一本、興行的にヒットする映画を作れば……という条件つきで、いちおうの結着をみた。〔…〕

恵介が映画化にあたって考えたのは、原作に漂う民話と伝説の雰囲気と、神話的で象徴的な構造を生かすため、得意のロケーションをいっさい行なわず、おりんの家や村の佇まいは無論のこと、田圃も、山も川も、すべて人工のセットで作り上げ、空は書割で描き、照明は人工のライトのみで、全体のスタイルを歌舞伎の様式で統一するという、まことに途方もない、おもい切った構想であった。

――「第10章 時流に抗して」

■ 天才監督木下惠介|長部日出雄|新潮社|2005 10月|ISBN9784103374084

★★★

《キャッチ・コピー》

『二十四の瞳』『カルメン故郷に帰る』『喜びも悲しみも幾歳月』『楢山節考』『笛吹川』…。天才監督の謎多き素顔と全49作品に迫る、著者渾身の傑作評伝。

*

横堀幸司■木下恵介の遺言

長部日出雄■桜桃とキリスト

長部日出雄■辻音楽師の唄

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2007.02.12

■ 探偵!ナイトスクープ――アホの遺伝子|松本修

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  ……ひとつを紹介してみよう。「箸がこけてもおかしい年頃とは何歳か?」という疑問に答えて、小枝さんは女性一人ずつの前で、2本の箸を路上でこかす。すると3歳の少女や若い女性たち、そして34歳までの女性は、それを見て大爆笑する。しかし35歳以上の年齢の女性はキョトンとするばかりで笑わない。そこで箸がこけてもおかしい年頃は、3歳から34歳までという結論となるのである。

こうした突き抜けたくだらなさ、アホさにもかかわらず、視聴率は前年と同様、7%台から11%台の間を行き来していた。せいぜい時たま、13%台を取ることがあるくらいだった。

そんな中、意外な「事件」が起きた。「箸がこけてもおかしい年頃」の放送から1ケ月経った7月の末、朝日放送の採用面接が行われた。数日にわたって第一次面接が行われるが、その初日、面接官を務めた何人もの社員が私に報告に来た。

「面接会場で、ものすごいことが起きてますよ! 学生たちの誰もかれもが、朝日放送のいちばん好きなテレビ番組として、『探偵!ナイトスクープ』をあげてます!」

まったく思いもかけないニュースだった。その驚きは、いっきょに全社を駆けめぐった。当時、朝日放送はさまざまな番組をヒットさせており、視聴率の上では「ナイトスクープ」はきわめて凡庸な番組のひとつに過ぎなかったからである。

■ 探偵!ナイトスクープ――アホの遺伝子|松本修|ポプラ社|2005 04月|ISBN9784591085516

★★★

《キャッチ・コピー》

1988年の放送開始以来、関西を中心に絶大な人気を誇る長寿お化け番組「探偵!ナイトスクープ」。生みの親である著者が、番組誕生の瞬間から現在までを初めて書き下ろした、爆笑と感動の一冊!

memo

 ♪ ベッドのまわりになにかもも脱ぎ散らして 

週末だけの秘密の部屋 おどけて……。

 と円広志の作詞作曲の「ハートスランプ・二人ぼっち」で始まるこの番組を、ビデオにとって土曜か日曜の昼食時にビールを飲みながら見て、爆笑。というサラリーマンの頃。

で、最近は、夜になって、放映された3本の内容を思い出せるかどうか試してみる。ん、思い出せない。

《探偵!ナイトスクープ》HP

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2006.11.01

■ シシド――小説・日活撮影所|宍戸 錠

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文部省特選の『警察日記』 は一九五五年二月三日節分の日に封切られた。

日本一豪華な映画館、丸ノ内日活劇場は主演森繁久彌の舞台挨拶と司会に沸いた。岩崎加根子とシシドが呼ばれた。岩崎は清楚で堂々としていた。

コールされたシシドの脚はすくみ、震えている。舞台中央のマイクまでの距離が途轍もなく遠く、長く思えた。(……)

「シシド君、脚が震えてるヨ」

「スミマセン、どうしたら止まるンでしょうか〜」(……)

森繁はシシドの頭を背伸びして押さえた。

「これで、どうだ」

「止まりました (不思議だ)」

手を離したら、すぐ震えろヨッ

森繁はシシドの耳元にそっと囁いた。

「また震えてます」

押さえる、止まる、離す、震えるを三回繰り返した後、森繁は一緒に震えだした。

「シシド君、押さえてくれ、キミのが移っちゃったヨォ」(……)

■ シシド――小説・日活撮影所|宍戸 錠|新潮社|200102月|4104443018

★★★

《キャッチ・コピー》

石原裕次郎の登場で日活が太陽の季節を迎えたとき、シシドはまだ陽の目を見ない役者だった。日活撮影所の黄金時代を綴る小説。

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2004.10.07

波平さん「おとなのフィッシング」見ましたよ(後) 

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 さて、竿釣り競技は、狩りに端を発する射撃、アーチェリーと同様に、1900年のパリ・オリンピックでの正式種目。6か国600人の選手はセーヌ河にむかって釣り糸をたれた。1時間のうちにもっとも大きな魚を釣ったものが金メダル…。と、「おとなのフィッシング」は続く。

 そのころの日本は、スポーツとしての釣りに興味をもたない。幸田露伴「釣れぬでもよい」というのが日本の釣り文化だ、と紹介する。いきなり露伴があらわれた。

 露伴といえば、波平氏の「魚釣り文化論」にしばしば登場しますね。
「今に至るも、日本で釣聖と呼ばれるのは彼・幸田露伴をおいて他にはありません」と波平氏は書いている。「露伴の小説『幻談』、これこそが、わが国の、釣り文学の最高傑作とされるものであります」

 ただし、と波平氏は書く。
「本当に露伴は釣りが上手だったのかどうか。内緒ですけどね、わたし、さほどではなかったと思いますよ。露伴の博識には想像を絶するものがあります。だけど、釣技までもがそうであったわけじゃない」

 高木卓という露伴の甥の『露伴の俳話』(講談社学術文庫)のなかに「露伴の片鱗」というエッセイがある。それによると、
「かつて露伴はみずから釣船をもち、専属の船頭にこがせて関東の諸川をはじめ各所を釣りまわった時代があるので、竿、糸、鈎などの道具から、餌、魚の種類から、さらに川や水質や、季節や天候や潮や、それら多面的な大うんちくがあとからあとから語られても、私などただ茫然ときいているよりほかはなかった」
らしい。

 それも、
「ふかい経験とひろい知識によって裏づけられているので、何といったらいいか、泉の水面がもりあがって水がムクムク湧きでるような、とうていわれわれには受けきらないようなゆたかさがあった。しかもすきな酒盃を手にしているときは、日ごろの江戸ッ子言葉がまた一段とべらんめえ的な暢達さをおびて、じつにえもいわれない調子と味があった」
 という。 
 そして露伴の一言。
「居ねえとこじゃ釣れねえ」
 いいですねえ、真理である。

 尺八の音がきこえる。それを吹く釣り師・波平の登場である(もっとも釣り師ではなく、「エッセイスト・柳本波平」とキャプションが入る)。ロケ地は、東京・文京区にある柳沢吉保がつくった庭園「六義園」の茶室である。
 福田蘭堂のまねをしたわけではない。波平氏、都山流尺八40年のベテランである。以下、ナレーション。

 ――日本の釣り文化を研究してきた柳本波平さんです。柳本さんに日本の釣り文化の真髄ともいうべき究極の釣りを披露してもらいました。それは何とめだか釣り。
 いまはすたれてしまいましたが、柳本さんはそれを再現し、みずからも楽しんでいます。めだか釣りの最大の特長は、まさに「釣れぬでもよい」ということ。

 ――針で釣りあげるのではなく、餌の先をめだかにくわえさせるだけなのです。体長わずか2センチメートルのめだかを、小さなしかけでさそいよせるめだか釣り。(めだかが水盤のなかを逃げまわる映像)時間がたつにつれ、次第にめだかの呼吸が見えてくるというのです。
 “ポツッ”(釣れた。効果音の水音がみごと)
 ほんの一瞬、餌をくわえるだけの釣りですが、この笑顔。(波平氏の顔のアップ)

 ――西洋人がオリンピックで釣りを競い合っていたころ、日本人が興じていた粋で風流なめだか釣り。これこそ日本が世界に誇る釣り文化だと(波平氏は)考えています。
 波平氏の声が入る。
「魚を釣るんじゃなくて、釣りのおもむきを釣る。日本人ならだれでもこの感覚は分ります。日本人特有のものじゃないでしょうか、こういう釣りは」
 
 釣りの風情を釣る。趣を釣る。この間、約2分。
 波平氏、堂々たるものでした。見事に波平流釣り文化を伝えました。

 その後の「宇宙」をキーワードとした「釣果未来予測プログラム」などは、釣り人でないわたしには興味がない。魚は空腹だから餌を食べるわけではない、といわれてもねえ。

 釣りを知り尽くし遊びつくした釣聖・幸田露伴の言葉を反芻したい。
「居ねえとこじゃ釣れねえ」

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2004.10.06

波平さん「おとなのフィッシング」見ましたよ(前) 

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 NHK総合の『ものしり一夜づけ』の「おとなのフィッシング」は台風のせいで延期されていたが、きのう(2004.10.05)放送された。まずゲストの糸井重里が、ナビゲーターの三宅裕司、南野陽子を相手に「人間が人間以外の生き物と出会う遊び」と釣りを定義してみせる。キーワードは3つ。笛吹童子、オリンピック、宇宙。

「笛吹童子」では、福田蘭童のコンドーム針の威力が紹介される。
ついでアメリカの戦闘機の緊急脱出用アイテムにフィッシング・キットが含まれている、という話はブラック・ジョークかと思った。パイロットが機体からパラシュートで脱出し、これには海に落ちたときのためにちゃんとゴムボートが付いている。

 フィッシング・キットは擬餌針など48点もあり、マニュアルには「太古から人類は釣りをして食料を手に入れてきた。だから君にもできる」と書いてある。これで食料を調達せよ、というわけだ。本当らしい。『スーパートリビア事典』に載っていそうな話だなあ。
 
 つぎの「オリンピック」では、1900年のパリ・オリンピックで竿釣り競技が正式種目だったこと、そしてわれらが釣り師・遊々波平が登場、「趣を釣る」奥義を語る。「宇宙」では、総合釣り情報mambooの坂井廣氏の釣果未来予測プログラムが紹介される。

「釣りは『妄想』である。スケベは釣りに向いている」と糸井重里が名言をはいていたが、登場した福田蘭童こそ知る人ぞ知る粋人である。父は「海の幸」の画家・青木繁、妻は戦前の松竹映画の女優・川崎弘子、息子はクレージーキャッツの石橋エータローである。で、本人は、作曲家で尺八演奏家(笛吹童子の作曲・演奏)、エッセイスト(釣りなどの著書多数)。

 手元に今東光との「老プレイボーイは前科16犯!?」という対談があり、「どこへ行くのも、竿をね、2本持っていくわけよ」などと猥談をしている。なかに「コンドーム釣り」について語っている部分を紹介しよう。
「釣りのエサがないとき、あんた進駐軍のサックちぎってエサにしたって?」との問いに答えて…。

 ――女だって据え膳食わされたら魅力がないわ。逃げると、やっぱり追いたくなる。これを、利用というか、逆に悪用してね。魚というのは、目の前にエサをぶら下げても食わない。だから、タイ釣りなんか竿を動かしているでしょう。あれも、逃げるから、タイが食いつく。ところが、ゴムは伸びるでしょう。1回、魚が食いつく。すぐ離す。魚というのは、1回でのみこまないんです。

 ――1回チョコッと食って、パッと離す。このとき、ゴムだから、パッとすばらしいスピードで離れる。そうすると、逃げちゃいけないと思うから、魚はパクッと食っちゃう。その感じが、実にコンドームだとピタリなんだ。もちろん丸ごとじゃいけないから、これを紡錘型に切って、魚の型にしてやった。これが大当たりでね。

 このあと、井伏鱒二や滝井孝作が大喜びしたとか、ぼくはコンドーム釣りの教祖ですよ、と語っている。(月刊噂1973年9月号)

 ところでわがブログは、番組が放送された直後、5日の23時台、6日の0時台に150件ものアクセスがあった。調べてみると、Yahoo!で「釣果予想プログラム」を検索し、そこからわがブログ『高齢予備軍の紙ヒコーキ往来』の「NHK今夜11時15分」を訪れたらしい。

 くたびれもうけ、がっかりさせてすみません。お目当ての1か月に900万件のアクセスがあるという総合釣り情報mambooはこちらです。http://www.mamboo.noi.co.jp/
 もちろん、波平氏のめだか釣りの検索も数十件ありました。それは、こちら。http://homepage3.nifty.com/medakaturi/index.htm 波平氏のサイト『めだか釣り』に直接アクセスはどれくらいあったのかな?

 番組最後に、釣りに2派あり、1つはデータで釣る派、もう1つは美意識で釣る派、とあったが、わがブログで見るかぎり、ねらった魚をどんどん釣りたいデータ派が圧倒的に多いようだ。「釣れぬでもよい」美意識派の話は、明日に。

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2004.09.07

NHK今夜11時15分

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  9月7日、NHK総合の『ものしり一夜づけ』という30分番組に、わが友人波平さんが登場することは、先に『波平氏のめだか釣り』で紹介した。
http://randomkobe.cocolog-nifty.com/center/2004/08/post_5.html
  つまりそれは今日のことなので、再度PRする次第。

1=おとなのフィッシング

  ものしり一夜づけ「おとなのフィッシング」午後11:15~11:45
  アウトドアブームを追い風に2000万人を突破した日本の釣り人口。欧米では「悪魔の趣味」と言われ、一度魅入られたら一生離してもらえない魅力を持つなど、洋の東西を問わず「趣味の王者」として君臨してきた。世界初の釣果予想プログラムから、女性が思わず赤面する秘儀まで一挙紹介。釣りを知らないあなたもびっくり、奥深~い釣りの世界に誘う。[ナビゲーター] 三宅裕司、南野陽子。(以上NHK資料より)


2=釣り師・柳本波平

  その番組に、わずか2、3分登場して、めだかを釣ってみせる波平さんは、こんな人。
  エッセイスト。1940年7月28日兵庫県生まれ。神戸市役所職員OB。週刊釣場速報紙・日本経済新聞などに軽妙かつヒューマンな釣りエッセイを連載。著書に「遊々波平 釣り日誌Ⅰ」(1997年・新風書房)。播磨マリーナを拠点にクルーザー「はまちどりⅢ」号で瀬戸内・太平洋・東シナ海に出没。魚釣り文化論をライフワークとして執筆中。兵庫県三木市在住。


3=めだか釣りの基礎知識

  波平式めだか釣りについては、急遽たちあげた以下のサイトへどうぞ。
http://www.medakaturi.com/


4=釣人不語

 「釣りには、『釣人不語』(釣師は語らないものだ)などというコトバもある。逃した大魚のことをしゃべるなというのか、法螺を吹いてはいけないというのか、穴場はけっして他人に教えるものではないというのか、それとも、万事静寂に終始せよという戒言なのか、さまざまに解釈できる」
  と開高健が『私の釣魚大全』のあとがきに書いたのは1976年のこと。続けて、
「書くことは語ることにほかならないのだから、釣人不語などといいつつ2冊も書いているあたり、すでに釣師として失格だろうと思っている」
 とも書いている。その後の20数年、おびただしい釣りの著作で、釣り師のみならず、わたしのような釣りを知らぬ者を も魅了しつづけた。
  そして釣人不語どころか釣人饒舌(釣人はおしゃべりだ)の時代となったのですね。


5=なお、波平さんの釣りにまつわるエッセイが楽しめる「波平釣り日誌・夢へ」は次へ。
http://homepage1.nifty.com/hamatidori/


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2004.09.06

加齢と任侠映画

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  東映仁侠映画についてもう一つ。これは笠原和夫の脚本ではないのだが、よく見たシリーズに「昭和残侠伝」がある。1965年の第1作から1972年の「昭和残侠伝・破れ傘」まで9作品ある。この映画のみどころは、花田秀次郎(=高倉健)と風間重吉(=池部良)の二人が歌(唐獅子牡丹)をバックに無言で敵陣へ乗り込む、その数分間の「道行き」シーンの映像美にある。

  池部良の登場といえば、たとえば「早春」(小津安二郎・1956年)などの過去のスターと思っていたのに、若山富三郎の返り咲きとはまったく違った「ミスキャスト?」の驚きがあった。その経緯を池部良は『心残りは…』(文春文庫・2004年)で書いている。

  ――(祇園の旅館に泊まっていたとき、女主人が「ごつうお顔した方が、お出やした、あんさんに会わせろと言うてはりますのや」と言う)

  「あたし、東映のプロデューサー、俊藤(浩滋)と申します」と言って「あたし、今度、『昭和残侠伝』と題しましてやくざ映画を考えておりますのや。それに、あんさんに、どないしても出演して戴こう思うて罷り越したわけですわ。(中略)
  義理と人情と友情と。日本人の男が憧れている原点をやね、やくざものの形式を取りまして作りますのや。あたしも丁半博打や血をどばっと見せるのは好きやおまへん。日本人の心を揺さぶる高度な娯楽映画を目指しておりますのや。そや。うちの高倉健という俳優、ご存知ないと思いますが。(中略)あの高倉を、池部はんのお力で男にしてやってもらえまへんやろか」(中略)
  情けないことに、人の好さが主体性を押しのけて、俊藤さんの声涙、倶に下ると見えた説得と、東宝では味わったことのない三顧の礼にも似た嬉しい申し入れに屈服。出演を承諾してしまった。ただし条件として、入墨を入れないこと、ポスターやタイトルの字は小さいこと、一話ごとに殺してもらいたいと言ったら、俊藤さんは大きな目を開いて「おかしなスターさんやな」と言った。

  この経緯については、俊藤浩滋の側からも、「連日、夜討ち朝駆けで口説くしかなかった」と語られている(『任侠映画伝』山根貞男との共著・講談社・1999年)。

  という訳で、ビデオショップで借りた『昭和残侠伝・吼えろ唐獅子』(佐伯清・1971年)を見た。高倉健、鶴田浩二、池部良の3人がそろった映画は3本しかなく、そのうちの1本である。このとき、高倉40歳、鶴田46歳、池部53歳である。
  かつてリアルタイムで見ていた私が20代後半~30代前半のころは、年齢が近い高倉、鶴田、池部の順に魅力を感じていたが、今60代になって見ると逆転して同じく年齢に近い池部、鶴田、高倉の順にいいなあと思う。これはどういうことか。年齢ということか、キャラクターなのか。

  三島由紀夫が「映画芸術」1969年4月号に映画評「“総長賭博”と“飛車角と吉良常”のなかの鶴田浩二」を書き、この一文によってこれまで無視されてきたやくざ映画が市民権を得たことはあまりにも有名なはなし。

  三島は「人生劇場・飛車角と吉良常」(内田吐夢・1968年10月封切)を見て「甚だ感心し」、かねてひいきの鶴田の「博奕打ち・総長賭博」(山下耕作・1968年1月封切)を見るため、小雨のそぼ降る夜に阿佐ヶ谷の小さな古ぼけた映画館へ行くのである。

  ――舞台上手の戸がたえずきしんで、あけたてするたびにパタンと音を立て、しかもそこから入る風がふんだんに厠臭を運んでくる。……このような理想的な環境で、私は、「総長賭博」を見た。そして甚だ感心した。これは何の誇張もなしに「名画」だと思った。

  そのあとの映画評は略すが、鶴田浩二についてこう書く。

  ――私が鶴田びいきになったのは、殊に、ここ数年であって、若いころの鶴田には何ら魅力を感じなかったが、今や飛車角の鶴田のかたわらでは、さしも人気絶頂の高倉健もただのデク人形のように見えるのであった。このことは、鶴田の戦中派的情念と、その辛抱立役への転身と、目の下のたるみとが、すべて私自身の問題になってきたところに理由があるのかもしれない。

  三島由紀夫は、これを書いた1年半後の1970年11月25日、自衛隊市ヶ谷駐屯地に突入し、自決するのである。45歳であった。

  映画評論家の高沢瑛一は、こんなことを書いている(楠本憲吉編『仁侠映画の世界』荒地出版社・1969年)。

 ――鶴田浩二の魅力は“情に生きるがこの命”なら
    高倉健の魅力は“義理に捨てるがこの命”であり、
    池部良の魅力は“情に捨てるのがこの命”

  ということは、私が若いころは高倉健が好きで、クールで無口、ストイックで義理を重んじる姿勢に憧れていたが、68歳の高倉健「鉄道員(ぽっぽや)」(降旗康男・1999年)を見て、「こんな国鉄職員はいないよ、まるで軍人か警察官みたいだ」という感想をもつにいたったことは、単に加齢だけの問題ではなく、加齢とともに、鶴田浩二のように情に生きることが好ましく思い(たとえばNHKドラマ人間模様『シャツの店』1986年)、さらに池部良のように情に「捨てる」心境、あるいは世間のしがらみが少なくなって、情とは縁が薄く、孤独になってきたということだろうか。

  なお、東映やくざ映画は、1972年「純子引退記念映画・関東緋桜一家」(マキノ雅弘)とともに任侠路線が終焉し、翌1973年「仁義なき戦い」(深作欣二)によって実録路線へと転換していく。

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2004.09.05

錦之助侠客伝・続

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 *
  プロデューサーの俊藤浩滋は、『任侠映画伝』(山根貞男との共著・講談社・1999年)でこう語る。

  ――「日本侠客伝」は最初、中村錦之助(萬屋錦之介)を主役に予定していた。もう時代劇の勢いはなくなっていたけど、私にいわせれば仁侠映画は別の形での時代劇に違いないし、ましてや「日本侠客伝」は「忠臣蔵」なんやから、時代劇スター・中村錦之助の新しい魅力が出ると思うた。錦ちゃんはマキノのおやっさんとも長年の付き合いで親しい。

  ――ところが中村錦之助が断ってきた。これには私もマキノの親父も京都撮影所の岡田茂所長もびっくりした。理由はいろいろ考えられるが、いちばんは組合の問題だったと思う。その年の5月、京都撮影所の俳優を中心に「東映俳優労働組合」というのができて、中村錦之助はそれに肩入れしたあげく、代表にされたばっかりだった。その組合と会社が契約条件でもめて敵対している最中に、会社の言うなりに主役を引き受けるわけにはいかん。だから断ってきた。(中略)

  ――高倉健を主役に持ってきたものの、彼のシャシンのこれまでの実績から見て、不安がある。そこで、脇でもいいからやっぱり中村錦之助に出てもらいたいと思うた。岡田所長が錦ちゃんを口説くいっぽう、私が笠原和夫に、錦ちゃんにふさわしい人物を新たに書き加えてくれるよう頼んだ。(中略)

  ――新しいホンを読んで、中村錦之助は出演を快諾してくれた。撮影は5日間ほどだったと思うが、さすが大スターで、所作の端正なこと、啖呵の切れ、恋女房とのやりとり、立回りの迫力、と、なにもかも息を呑ませるほど光っていた。こうして「日本侠客伝」は大ヒットし、高倉健は人気スターの座に躍り出た。

  このとき俊藤浩滋は47歳。以後仁侠映画ブームの影の主役の一人である。俊藤浩滋は言わずと知れた藤純子の実父である。神戸市長田区大谷町の生まれ。10代のころ御影にあった五島組の博奕場に出入りしていたと『仁侠映画伝』に書いている。

 *
  ところが今回読んだ『昭和の劇』で笠原和夫は、組合問題だったが、プロデューサーの俊藤浩滋に係わることだった、と証言する。

  ――「日本侠客伝」というのは、初めは錦之助が主役ということだったんだけども、錦之助が出るのはイヤだと言いだしましてね。それで高倉健をひっぱってきたんですよ。健ちゃんは、錦之助とは「キン兄」とかいう仲ですからね、それで高倉健は錦之助のところへいって「主役をやらせてもらいます」と挨拶したんです。その時、錦之助が「お前が主役をやるなら、俺が一丁、噛んでやろう」と。それで俊藤さんのところへ行って、「私もワン・シーンなら出ます」と言ったので、もうホンはできていたんだけど、急遽、俊藤さんが僕のところへ来て、書き足してくれと言うんですよ。

  ――4日間ということはないですよ。ちゃんと役を研究していましたしね。例えば、僕は「あっしは」というセリフを書いたんですよ。つまり江戸前のセリフを書いたわけなんだけど、あの錦之助の役は千葉のやくざという設定でしょ。千葉の人は「わっちゃあ」と言うんですよ。それをちゃんと自分で直してセリフを言っていましたしね。

  ――錦之助が「日本侠客伝」に出なかったというのは、ちょうどあの頃、京撮で内部抗争がありましてね。つまりスタッフや大部屋俳優の労働者組合みたいなものがあって、それがガタガタやっているところへ俊藤さんが東映に来たわけですよ。それに対して組合は何たることだと。正規のプロデューサーでもないのにやってきて、しかもつくっているものがやくざ映画だと。俊藤さんが、なんとなくそっち方面の色が濃い人だというのは撮影所ではわかっていましたしね。それで、みんなで錦之助をかつぎあげて、俊藤さんたちを追い払おうとしたんですよ。そういうこともあって、錦之助は「日本侠客伝」に出ないと言ってきたんですね。

  このとき笠原和夫は37歳。三者三様の証言である。錦之助は31歳、高倉健33歳であった。


  ついでに書けば、マキノ雅弘は1993年85歳、俊藤浩滋は2001年84歳、笠原和夫は2002年75歳で亡くなっている。

  中村錦之助は1961年から始まった内田吐夢監督の「宮本武蔵」5部作の真っ最中。
「1年1作、5年間というシリーズのなかでいかに錦之助を大きく成長させるかが、作品の成功とはべつに、吐夢に与えられたもう一つの課題であった」と鈴木尚之『私説内田吐夢伝』(岩波書店・1997年)にあり、錦之助が武蔵の心をつかんだ挿話が書かれている。
  そういえば佐々木小次郎役は高倉健であった。錦之助は1997年62歳で亡くなった。 

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(映画に関連した本を楽天フリマで売却することにした。手元にあるうちにわが備忘録として書きとめておく次第。)

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