
東映仁侠映画についてもう一つ。これは笠原和夫の脚本ではないのだが、よく見たシリーズに「昭和残侠伝」がある。1965年の第1作から1972年の「昭和残侠伝・破れ傘」まで9作品ある。この映画のみどころは、花田秀次郎(=高倉健)と風間重吉(=池部良)の二人が歌(唐獅子牡丹)をバックに無言で敵陣へ乗り込む、その数分間の「道行き」シーンの映像美にある。
池部良の登場といえば、たとえば「早春」(小津安二郎・1956年)などの過去のスターと思っていたのに、若山富三郎の返り咲きとはまったく違った「ミスキャスト?」の驚きがあった。その経緯を池部良は『心残りは…』(文春文庫・2004年)で書いている。
――(祇園の旅館に泊まっていたとき、女主人が「ごつうお顔した方が、お出やした、あんさんに会わせろと言うてはりますのや」と言う)
「あたし、東映のプロデューサー、俊藤(浩滋)と申します」と言って「あたし、今度、『昭和残侠伝』と題しましてやくざ映画を考えておりますのや。それに、あんさんに、どないしても出演して戴こう思うて罷り越したわけですわ。(中略)
義理と人情と友情と。日本人の男が憧れている原点をやね、やくざものの形式を取りまして作りますのや。あたしも丁半博打や血をどばっと見せるのは好きやおまへん。日本人の心を揺さぶる高度な娯楽映画を目指しておりますのや。そや。うちの高倉健という俳優、ご存知ないと思いますが。(中略)あの高倉を、池部はんのお力で男にしてやってもらえまへんやろか」(中略)
情けないことに、人の好さが主体性を押しのけて、俊藤さんの声涙、倶に下ると見えた説得と、東宝では味わったことのない三顧の礼にも似た嬉しい申し入れに屈服。出演を承諾してしまった。ただし条件として、入墨を入れないこと、ポスターやタイトルの字は小さいこと、一話ごとに殺してもらいたいと言ったら、俊藤さんは大きな目を開いて「おかしなスターさんやな」と言った。
この経緯については、俊藤浩滋の側からも、「連日、夜討ち朝駆けで口説くしかなかった」と語られている(『任侠映画伝』山根貞男との共著・講談社・1999年)。
という訳で、ビデオショップで借りた『昭和残侠伝・吼えろ唐獅子』(佐伯清・1971年)を見た。高倉健、鶴田浩二、池部良の3人がそろった映画は3本しかなく、そのうちの1本である。このとき、高倉40歳、鶴田46歳、池部53歳である。
かつてリアルタイムで見ていた私が20代後半~30代前半のころは、年齢が近い高倉、鶴田、池部の順に魅力を感じていたが、今60代になって見ると逆転して同じく年齢に近い池部、鶴田、高倉の順にいいなあと思う。これはどういうことか。年齢ということか、キャラクターなのか。
三島由紀夫が「映画芸術」1969年4月号に映画評「“総長賭博”と“飛車角と吉良常”のなかの鶴田浩二」を書き、この一文によってこれまで無視されてきたやくざ映画が市民権を得たことはあまりにも有名なはなし。
三島は「人生劇場・飛車角と吉良常」(内田吐夢・1968年10月封切)を見て「甚だ感心し」、かねてひいきの鶴田の「博奕打ち・総長賭博」(山下耕作・1968年1月封切)を見るため、小雨のそぼ降る夜に阿佐ヶ谷の小さな古ぼけた映画館へ行くのである。
――舞台上手の戸がたえずきしんで、あけたてするたびにパタンと音を立て、しかもそこから入る風がふんだんに厠臭を運んでくる。……このような理想的な環境で、私は、「総長賭博」を見た。そして甚だ感心した。これは何の誇張もなしに「名画」だと思った。
そのあとの映画評は略すが、鶴田浩二についてこう書く。
――私が鶴田びいきになったのは、殊に、ここ数年であって、若いころの鶴田には何ら魅力を感じなかったが、今や飛車角の鶴田のかたわらでは、さしも人気絶頂の高倉健もただのデク人形のように見えるのであった。このことは、鶴田の戦中派的情念と、その辛抱立役への転身と、目の下のたるみとが、すべて私自身の問題になってきたところに理由があるのかもしれない。
三島由紀夫は、これを書いた1年半後の1970年11月25日、自衛隊市ヶ谷駐屯地に突入し、自決するのである。45歳であった。
映画評論家の高沢瑛一は、こんなことを書いている(楠本憲吉編『仁侠映画の世界』荒地出版社・1969年)。
――鶴田浩二の魅力は“情に生きるがこの命”なら
高倉健の魅力は“義理に捨てるがこの命”であり、
池部良の魅力は“情に捨てるのがこの命”
ということは、私が若いころは高倉健が好きで、クールで無口、ストイックで義理を重んじる姿勢に憧れていたが、68歳の高倉健「鉄道員(ぽっぽや)」(降旗康男・1999年)を見て、「こんな国鉄職員はいないよ、まるで軍人か警察官みたいだ」という感想をもつにいたったことは、単に加齢だけの問題ではなく、加齢とともに、鶴田浩二のように情に生きることが好ましく思い(たとえばNHKドラマ人間模様『シャツの店』1986年)、さらに池部良のように情に「捨てる」心境、あるいは世間のしがらみが少なくなって、情とは縁が薄く、孤独になってきたということだろうか。
なお、東映やくざ映画は、1972年「純子引退記念映画・関東緋桜一家」(マキノ雅弘)とともに任侠路線が終焉し、翌1973年「仁義なき戦い」(深作欣二)によって実録路線へと転換していく。