
紀伊山地の霊場とその参詣道が世界遺産に登録されたというので、熊野三山に行ってきた。「特急くろしおで行く熊野三山と秘湯十津川温泉2日間」というツアーである。じつは熊野には興味がなく、というより知識がない。子どものころ教わった吉野熊野国立公園、奈良・和歌山・三重の三県にまたがる山岳、渓谷、海岸が美しいところ、としか知らない。目的は十津川村である。
司馬遼太郎『街道をゆく12・十津川街道』にこう書かれている。
――十津川郷とは、いまの奈良県吉野郡の奥にひろがっている広大な山岳地帯で、十津川という渓流が岩を噛むようにして紀州熊野にむかって流れ、平坦地帯はほとんどなく、秘境という人文・自然地理の概念にこれほどあてはまる地域は日本でもまずすくないといっていい。
分け入っても分け入っても青い山 種田山頭火
深山に蕨採りつつ滅びるか 鈴木六林男
大峠小峠鷹の渡る頃 大峯あきら
この3句がどこでつくられたか知らないが、山また山という広大なイメージの地に、この身をおいてみたい。
朝日文庫版の『十津川街道』を持参し、特急くろしお車内で再読した。「週刊朝日」に連載されたのは、1977年10月から。この文庫版は1983年3月第1刷、1997年12月第12刷。
――将、将たらざるが故に士、士たらず。
という1箇所だけに赤線が引いてある。サラリーマンの常で、経営の参考に司馬遼太郎を読んでいたらしい。
しかし、記憶に残っているのは、住民が免租と“共和制”を維持するためにけなげな努力をしてきたこと、明治時代に大洪水にあい復旧不可とみて大挙して北海道へ移住したこと、の二つである。
今回のツアーは、紀伊田辺駅で下車。バスで国道311号線、中辺路である。神域のはじまりといわれている滝尻王子で休憩。バスで一直線、熊野本宮大社へ行く。そこから国道168号線を北上した。十津川村を縦断するいわゆる十津川街道である。
国土交通省ホームページのよると、
「明治22年8月の水害は甚大で、十津川郷では、1,080箇所もの山岳崩壊が起こり、土砂でせき止められた湖が37箇所もできました。十津川郷は当時、6ヶ村、2,400戸、13,000人の村でした。北十津川村の高津では、幅870mほどが山頂から崩れ、十津川をふさぎ、高津でせき止められた水は、高さ数十mの激流となって4~5㎞ほど上流まで逆流し、死傷者が続出しました。十津川郷のあちこちでできた土砂でせき止められた湖のほとんどは、その日のうち(真夜中)に決壊し、新湖の下流では、いったん洪水が収まっていたところに、湖の崩壊で一気に洪水が襲ってくるという現象が同時多発的に起きました」
司馬遼太郎は、
――「旧形ニ復スルハケダシ30年ノ後ニアルベシ」
と、この惨状を視た奈良県の書記官が知事に報告した。(略)
と書いている。
この水害で、十津川郷の600戸、約2,500人が、住み慣れた村を離れて北海道に移住し、新十津川村ができたのだが、「まことに山郷の歴史はすさまじい」(『街道をゆく』)。
ちなみに現在の奈良県・十津川村は人口4,854 人、北海道・新十津川町は人口8,067 人。
私たちのツアーのバスガイドは「新十津川町の中学生が修学旅行で奈良まで来ることがあるが、残念ながら十津川へは遠くて来れない」と話してくれた。そんなばかな…。大仏や鹿を見なくとも、町のルーツを訪ねるべきだろう。
あとでネットで調べると、「北海道・新十津川町の生徒が玉置神社に参拝」という記事が見つかった。
「7月28日午後に北海道・新十津川町の小・中学校の生徒26名と引率の先生が、祖先の故郷を訪ねる旅で、玉置神社を参拝しました。明治22年十津川村を襲った水害で北海道に移住した人々が創った新十津川町が毎年、夏休みに町内の小・中学生を対象にした母村訪問の一貫です」
それにしても十津川は広い。そこで、一句。
秋しぐれ十津川十五里まだ半ば
川に沿っているので当然のことながら国道168号線はくねくねと曲がっている。道路もまた、改修され、舗装され、拡幅されてきたにちがいない。そして現在、高速道路のような一直線にのびる新線が建設中である。川の上をほぼ直線に走る。十津川を貫く棒のごときもの。できあがれば奇観であろう。秘境の景観を破壊するものとよばれるか、住民悲願の生活道路といわれるか。
旅の者としては、ノーコメント。一句よむのみ。
十津川は冷まじ未完のハイウエイ
「遠いぶんだけ、あったかい。それが十津川」
と村観光協会がPRにつとめても、かつてほとんどが百姓身分だったのが明治維新後、2,233戸ことごとく士族になったというプライドのせいか、わたしたちが泊まった役場にいちばん近いホテルは、従業員の態度がそろってよくなく、いろどりの少ない夕食で、うすぐらい温泉だけが「あったか」かっただけ。
翌日、台風の余波で瀞峡遊覧船は休止となっており、急遽、県境の果無山脈をこえ、熊野本宮大社近くの渡瀬温泉で、朝から露天風呂に入ることとなった。そこで、一句。
野猿来よ朝湯朝酒橡(とち)の実も
露天風呂につかりながら、『十津川街道』の最終章を思いだしていた。“共和国”の歴史に共感しつつも、“秘境”という暗がりを思った。
――車にもどって南下すると、道はいよいよくだり勾配になり、川は平地の川相を呈しはじめ、そのまま熊野に入る。熊野は隠国(こもりく)といわれながら、北方の高地の十津川郷からきた目でみると、目を見はりたいほどに広潤な野に感じられるのは、十津川郷の印象がそれほど濃厚であったということらしい。