旅行・地域

2007.04.24

横田増生■ アメリカ「対日感情」紀行――全米50州インタビュードライブ600日

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「マップス」とは、州都であるオクラホマシティの再建計画のこと。オクラホマシティでは現在、快適な住環境を整えるため、野球場やコンサートホールを建て替えたり、町なかに人工の運河を作って船を浮かべる計画が進んでいるのだ。〔…〕

オイルバブルがはじけたあと、オクラホマの経済はじり貧状態がつづいた。90年代に入ると、大手航空会社がオクラホマシティに修理工場を建設するという話が舞い込んできた。数千人の雇用を生みだすビッグプロジェクトとなるはずだったが、結局、工場は他州に建てられた。〔…〕

「工場を誘致する条件では、オクラホマが一番よかった。誘致に失敗したのは、条件以外のところにあったんだ。その航空会社は、オクラホマシティは娯楽施設や教育施設が貧弱でわが社の社員の居住地とするには魅力に欠けていた、と指摘したんだ。これが『マップス』につながった。〔…〕」

昼食に立ち寄ったブリックタウン球場の二階のレストランで、ジョンソンさんは語った。

「マップス」のために、住民投票で5年にわたる増税が決まり、集めた税金を10年かけて8つの都市再生プロジェクトに振りわけた。しだいに「マップス」は、ダウンタウン復興の成功例として全米に知れわたるようになった。

■ アメリカ「対日感情」紀行――全米50州インタビュードライブ600日|横田増生|情報センター出版局|2003 11月|ISBN9784795840423

★★★

《キャッチ・コピー》

テレビに映るブッシュだけがアメリカ人じゃない。メディアが伝えるアメリカは「本当のアメリカ」なのか? アメリカ人たちの目に「日本」はどのように映っているのか? これらの疑問の答えを探す。ただそれだけの理由で、彼は独り、アメリカ全50州を爆走した―。新鋭ジャーナリスト、魂のインタビュー紀行!

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2007.04.12

■ 開高健 夢駆ける草原|高橋 曻

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「旅にも疲れた、読むことも、見ることも、聞くことも、食うことも、飲むことも、ぜんぶやってしまった。もう充分ャ。あと残っているのは自殺くらいのもんやな、ハハハハハ……」

そんなことを言うときの先生の眼は、遠くて暗い哀しみに沈んでいた。

「オィ、海坊主、なんでもエエからでかくて面白い話を知らんか?」

まるで、生きることのすべてに失望しているようだった。

それがあのモンゴル大草原に立ったときに、チカッ、ピカリ、ズドドン! と先生の中で閃いたのだ。

「謎ャ、大いなる謎ャ。人類史上最大最強の帝国であったモンゴルのチンギス・ハーンの墓がいまだに発見されてないのはなんでャ。これは最後の夢やデ。もう少し生きていられる気がしてきたデ」〔…〕

先生の掛け声に、誰もがみんな同じ夢を見た。しかしその計画が実際にスタートしたとき、そこに先生だけがいなかった。

――「夢を追うんヤ。」

■ 開高健 夢駆ける草原|高橋 曻|つり人社|2006 10月|ISBN9784885365485

★★

《キャッチ・コピー》

「キミと私は切っても切れない仲なんャ、よろしく頼むデ」と直々に指名を受け、十数年にわたって『オーパ!』の旅のすべてを撮影し続けた、写真家・高橋曻。

世界中いっしょに歩いた写真家が、これまで大切にしていた旅の思い出を、書き下ろしのフォトエッセイ集にまとめました。誰も知らなかった開高健の姿が甦る、ファン必読の一冊です。

*

開高健■オーパ!

仲間秀典■開高健の憂鬱

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2007.04.09

■ 迷子の自由|星野博美

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私の理解の中では、写真を撮るとは一瞬を切り取ることである。フィルムで写真を撮る私にとって、シャッターを切った瞬間、写真はすでに存在している。現像していなくても、写真はすでにフィルムの上に存在している。〔…〕「撮ったら残す」とか「撮ったが残さない」という選択はありえない。

たとえどんなにあがりが気に入らなくても、撮ったことをなかったことにだけはできない。それが私にとっての「写真を撮る」という行為の大前提だったし、いまでもそうだ。

撮れた写真の背後には、膨大な量の、思うように撮れなかった写真や、シャッターを切る勇気がなく、存在すらできなかった写真がある。写真は偶然に撮れるが、撮れなかった写真に偶然はない。逆に、撮れなかった写真にこそ、撮る人間の本質が隠されている。

デジタルの世界は私たちの目の前に、「消しますか? あなたが望むなら、なかったことにできますよ」という禁断の選択を提示する消せるものなら、私だって消したい。しかし一度消してしまったら、もう二度とあと戻りできなくなるような気がする。

忘れたくないから撮り、忘れるために消す。人間はずいぶん手のこんだ道具を手にしてしまったものだ。

――「写真」

■ 迷子の自由|星野博美|朝日新聞社|2007 02月|ISBN9784022502537

《キャッチ・コピー》

その日は、朝からなんとなくいい感じだった。迷子になるには最適の日だった…。東京・インド・重慶を迷い歩いた写真×エッセー集。

*

星野博美■ のりたまと煙突

星野博美■ 転がる香港に苔は生えない

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2007.03.30

■ マイナス50℃の世界|米原万里/山本皓一

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取材陣に通訳として同行した私は真冬のシベリアを二カ月がかりで横断。クライマックスは冬季平均気温がマイナス50度という、ヤクート共和国における取材で、最低気温零下59度を体験した。

合成樹脂製のカメラバッグがたちまちひび割れ破れてしまい、薬瓶のプラスチック製の蓋を開けようとしたらパラパラと粉状に。とにかく石油製品は一切通用しない世界である。〔…〕

この時採用されたのが、アシックス社のゴアテックスという新素材の繊維で作られた防寒着。本来月面探査隊のために開発された素材とうかがった。

その開発担当の部長さんはロシア19世紀の文豪ゴーゴリの名作『クラス・ブリバ』を、こよなく愛読していたらしい。防寒着シリーズにこの名がついた。〔…〕

自分たちの愛してやまない主人公の名がロゴとして日本人取材班の一人ひとりの胸に記されるのに気付くと、ロシア人は皆興味深げに尋ねる。われわれとしても、ロシアの名作が日本人にも愛されていることを知らせるのが嬉しく、喜んでその理由を告げるのだった。

あるとき、説明を聞いたロシア人はつぶやいた。

「その方の座右の書がドストエフスキーの『白痴』じゃなくて本当によかったですね」

――座右の書

■ マイナス50℃の世界|米原万里/写真・山本皓一|清流出版|2007 01月|ISBN9784860291891

★★★

《キャッチ・コピー》

1984年から85年に行われた、TBSテレビのシベリア横断65日の取材に通訳として参加した米原万里が、その体験を小学生にもわかるように綴った幻の処女作

memo

 世界一寒い国、旧ソ連ヤクート共和国(現サハ共和国)。この本を読まければ、一生知らなかった国。

米原万里■ 必笑小咄のテクニック

米原万里■ 真昼の星空

米原万里■ 打ちのめされるようなすごい本

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2006.12.20

■ 汽車旅放浪記|関川夏央

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人は誰でも二十五歳までにすごした文化から自由になれない。

それは檻のごときものだ。流行音楽はビートルズかせいぜいサザンオールスターズまでしか理解できず、マンガは「こまわり君」までしかわからない。芥川賞だけは気にしているが、いざ読めば、何だこれは、不潔だ不快だ、こんなもの文学ではない、などと騒ぐ。進歩的言辞七割、処世訓三割の説教を好む。

そのくせ自分が退職するまで会社がもてばいいや、と勝ち逃げの態度が明白だから、説教にも初老「鉄ちゃん」はかわいいか説得力がともなわない。

私は自分の体臭のなかに、おじいさんのにおいを嗅ぐことがある。しかし、本人の気分はまだ三十五歳なのである。この客観像と自己像のずれの中に悲劇はひそんでいる。どの時代にもそれはあっただろうが、必要以上に老成を嫌い、必要以上に若さを価値と信じた分、「団塊」の衝撃は深いのである。

――「初老「鉄ちゃん」はかわいいか」

■ 汽車旅放浪記|関川夏央|新潮社|200606月|ISBN4103876034

★★★

《キャッチ・コピー》

漱石が、清張が、そして宮脇俊三が描き、人々に愛された鉄道路線の数々―明治期の国鉄、満鉄、そして日本各地を巡るローカル線まで、読んで、乗って、調べて、旅する楽しい時間旅行。

■ やむにやまれず|関川夏央

■ 昭和が明るかった頃|関川夏央

■ 白樺たちの大正|関川夏央

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2004.10.12

十津川秋思

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 紀伊山地の霊場とその参詣道が世界遺産に登録されたというので、熊野三山に行ってきた。「特急くろしおで行く熊野三山と秘湯十津川温泉2日間」というツアーである。じつは熊野には興味がなく、というより知識がない。子どものころ教わった吉野熊野国立公園、奈良・和歌山・三重の三県にまたがる山岳、渓谷、海岸が美しいところ、としか知らない。目的は十津川村である。

 司馬遼太郎『街道をゆく12・十津川街道』にこう書かれている。
 ――十津川郷とは、いまの奈良県吉野郡の奥にひろがっている広大な山岳地帯で、十津川という渓流が岩を噛むようにして紀州熊野にむかって流れ、平坦地帯はほとんどなく、秘境という人文・自然地理の概念にこれほどあてはまる地域は日本でもまずすくないといっていい。
 
  分け入っても分け入っても青い山   種田山頭火
  深山に蕨採りつつ滅びるか   鈴木六林男
  大峠小峠鷹の渡る頃  大峯あきら
 この3句がどこでつくられたか知らないが、山また山という広大なイメージの地に、この身をおいてみたい。

 朝日文庫版の『十津川街道』を持参し、特急くろしお車内で再読した。「週刊朝日」に連載されたのは、1977年10月から。この文庫版は1983年3月第1刷、1997年12月第12刷。
 ――将、将たらざるが故に士、士たらず。
という1箇所だけに赤線が引いてある。サラリーマンの常で、経営の参考に司馬遼太郎を読んでいたらしい。
 しかし、記憶に残っているのは、住民が免租と“共和制”を維持するためにけなげな努力をしてきたこと、明治時代に大洪水にあい復旧不可とみて大挙して北海道へ移住したこと、の二つである。

 今回のツアーは、紀伊田辺駅で下車。バスで国道311号線、中辺路である。神域のはじまりといわれている滝尻王子で休憩。バスで一直線、熊野本宮大社へ行く。そこから国道168号線を北上した。十津川村を縦断するいわゆる十津川街道である。

 国土交通省ホームページのよると、
「明治22年8月の水害は甚大で、十津川郷では、1,080箇所もの山岳崩壊が起こり、土砂でせき止められた湖が37箇所もできました。十津川郷は当時、6ヶ村、2,400戸、13,000人の村でした。北十津川村の高津では、幅870mほどが山頂から崩れ、十津川をふさぎ、高津でせき止められた水は、高さ数十mの激流となって4~5㎞ほど上流まで逆流し、死傷者が続出しました。十津川郷のあちこちでできた土砂でせき止められた湖のほとんどは、その日のうち(真夜中)に決壊し、新湖の下流では、いったん洪水が収まっていたところに、湖の崩壊で一気に洪水が襲ってくるという現象が同時多発的に起きました」

 司馬遼太郎は、
 ――「旧形ニ復スルハケダシ30年ノ後ニアルベシ」
 と、この惨状を視た奈良県の書記官が知事に報告した。(略)
 と書いている。

 この水害で、十津川郷の600戸、約2,500人が、住み慣れた村を離れて北海道に移住し、新十津川村ができたのだが、「まことに山郷の歴史はすさまじい」(『街道をゆく』)。
 ちなみに現在の奈良県・十津川村は人口4,854 人、北海道・新十津川町は人口8,067 人。

 私たちのツアーのバスガイドは「新十津川町の中学生が修学旅行で奈良まで来ることがあるが、残念ながら十津川へは遠くて来れない」と話してくれた。そんなばかな…。大仏や鹿を見なくとも、町のルーツを訪ねるべきだろう。

 あとでネットで調べると、「北海道・新十津川町の生徒が玉置神社に参拝」という記事が見つかった。
「7月28日午後に北海道・新十津川町の小・中学校の生徒26名と引率の先生が、祖先の故郷を訪ねる旅で、玉置神社を参拝しました。明治22年十津川村を襲った水害で北海道に移住した人々が創った新十津川町が毎年、夏休みに町内の小・中学生を対象にした母村訪問の一貫です」

 それにしても十津川は広い。そこで、一句。
  秋しぐれ十津川十五里まだ半ば
 川に沿っているので当然のことながら国道168号線はくねくねと曲がっている。道路もまた、改修され、舗装され、拡幅されてきたにちがいない。そして現在、高速道路のような一直線にのびる新線が建設中である。川の上をほぼ直線に走る。十津川を貫く棒のごときもの。できあがれば奇観であろう。秘境の景観を破壊するものとよばれるか、住民悲願の生活道路といわれるか。
 旅の者としては、ノーコメント。一句よむのみ。
 十津川は冷まじ未完のハイウエイ

「遠いぶんだけ、あったかい。それが十津川」
 と村観光協会がPRにつとめても、かつてほとんどが百姓身分だったのが明治維新後、2,233戸ことごとく士族になったというプライドのせいか、わたしたちが泊まった役場にいちばん近いホテルは、従業員の態度がそろってよくなく、いろどりの少ない夕食で、うすぐらい温泉だけが「あったか」かっただけ。

 翌日、台風の余波で瀞峡遊覧船は休止となっており、急遽、県境の果無山脈をこえ、熊野本宮大社近くの渡瀬温泉で、朝から露天風呂に入ることとなった。そこで、一句。
  野猿来よ朝湯朝酒橡(とち)の実も

 露天風呂につかりながら、『十津川街道』の最終章を思いだしていた。“共和国”の歴史に共感しつつも、“秘境”という暗がりを思った。
――車にもどって南下すると、道はいよいよくだり勾配になり、川は平地の川相を呈しはじめ、そのまま熊野に入る。熊野は隠国(こもりく)といわれながら、北方の高地の十津川郷からきた目でみると、目を見はりたいほどに広潤な野に感じられるのは、十津川郷の印象がそれほど濃厚であったということらしい。

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